バクダン/腕時計

 ある晩。父親が、十万円もする腕時計を買ってきた。
「どうだ、拓也。これでお前も、志望校合格は間違いなしだぞ!」
 僕はいま中学三年生で、一月下旬の現在は、受験戦争の最前線で戦っている。いつかの夜、僕は父親に腕時計が欲しいと言ったことがあった。
「いや、時間配分とかの関係で、時計はやっぱり重要みたいだしさ。間違いなく携帯は使えないだろうし。なんか職場から、適当な腕時計買ってきてくれない? 一番安いのでいいから」
 父親は、全国に展開している大手のデパートに勤めている。そんな百貨店に置いてある腕時計なんてたいそう高級なイメージがあったから、それを見越した上で頼んだつもりだったんだが。
「うん、ありがとう。……でもさ、わざわざ十万もする腕時計なんて買ってこなくても。試験の日だけに、使うつもりだったんだから」
 「いや、これはただの腕時計じゃないんだ。うちの売り場でもまだ販売されたばかりの、受験生用の特別な時計なんだぞ!」
「受験生用? なにそれ。ただの高価なデジタル時計じゃないの」
 と言いながら、僕はその時計をケースから出して実際にはめてみた。液晶画面の左右に小さなスイッチが並んでいて、何かいろいろな機能が付いているようではある。
「まあ、待て。いまから説明する。……誤解しないようにまず断っておくが、何もこれは、カンニング機能のついた時計ではないからな。あくまでもお前の学力が必要なんだ! 悪い 意味でこの時計に頼って、ハンパな心構えで試験に臨んで痛い目を見るんじゃないぞ!」
 さっきまで浮かれた顔をしていたのに急に強張った様子で父親は怒鳴った。まだ何も聞 いていないのに、と突然怒られたみたいで僕はちょっと反応に困った。
 すると、腕時計にしては珍しく分厚い説明書が、目の前にドンと置かれた。
「学校や塾でもちろん聞いていると思うが、今年から、高校受験の問題数は大幅に増える らしいな」
「うん、そうなんだ。どの教科も、いままでの三倍は出題されるだろうって。その代わりに 難易度が下がるわけじゃないから、大変だよ……」
「拓也は不安なのか? そういえば、このまえの模試の結果はあまり良くなかったみたい だが」
「なんか焦るんだよね。時間が限られていると思うとさ。落ち着いて考えれば解けるんだろうけど……、苦手なんだ」
「よしよし、よく分かった。やはりこの腕時計は、いまのお前にうってつけだな!」
 そう言うと父親は説明書のページをめくって、ある項目を指差した。僕はその文章を目でなぞると、思わず身を乗り出して読んでしまった。とても興味を引く文句が書かれてあっ たのだ。
「この腕時計を巻いているだけで……、問題が数倍速く解けるようになるの?」
「どうだ、驚いたか。そこに説明してあるとおり、このスイッチを押すと腕時計から電気信号が発せられて脳を活性化し、頭の回転を速くするんだ。これで問題数が多くても、対応できるはずだぞ」
 まるで時間を早めたように、問題があっという間に解けます。
 これが、マニュアル本に書かれたこの腕時計のうたい文句だった。僕はそれを読むとさっそく部屋へ戻り、電気信号を操作するというスイッチを押して実際に数学の問題を解いてみた。それは問題数が百問以上はあるプリントで、普段の僕なら、制限時間を使いはたしても半分も書き込めなかったものだ。
「す、すごい。いつもはもっと時間が掛かるのに、スラスラ鉛筆が動くぞ!」
 しかし腕時計の効果はてきめんだった。実際の試験を想定したプリントが、ものの二十分で終了してしまったのだ。制限時間のたった三分の一のスピードである。
「どうだ、拓也。効果のほどは?」
「うん、凄いよこれ。脳みそにF1モータが付いたみたいに、回答が即行できた。採点してみてもケアレスミスが少し増えただけで、見直しする時間もまだ残っているからぜんぜん余裕がある! 最高だよ、この腕時計」
 猛スピードで問題が解けたことへの衝撃と興奮は、しばらくおさまらなかった。腕時計の作用とはいえ、自分がいきなり天才になってしまったのだ。浮かれるなというほうが無理がある。時計を腕に巻いてすぐに釘を刺した父親も、そんな心情を悟ったのか、部屋ではしゃぐ僕を見ても何も言わなかった。
 その後も、国語や英語と、教科を変えて試してみたけど結果は同じだった。電気信号が脳を覚醒させ、解答欄をまたたく間に埋めていく。それから数日後にあった塾のテストでは、周りの生徒との問題を解く差がありすぎて、本当に僕だけ時間が早く流れているのではないかと錯覚するほどだった。

「おいおい、いいのか。こんな時期に俺たちと遊んでて」
「受験までもう一ヶ月もないんじゃないのかよ」
「ははっ、いいんだよ。……いまさら勉強しなくても、俺の合格は間違いないんだから」
 学校の帰り道。僕は、推薦で早々と入学を決めてしまった奴らとカラオケに来ていた。塾の無断欠席など普通なら考えられないが、僕には一般の受験生と大きな差があるのだ。
「やけに余裕だなー。なにか、受験で秘策でもあるのかよ?」
「うん、まあね。……中岡たちならもう入学は決定してあるし、話しても別にいいか」
 僕はシャツの袖をまくって、腕時計の銀色の光沢を彼らに向けた。カラオケの薄い証明のなかでもその輝きは損なわれない。そして時計の機能について説明しようと、口を開いたときである。
「あっ、その腕時計―――見たことあるぞ。テレビのワイドショーかなんかで、特集してたな。たしか電気信号を発生させる装置がついていて、頭の回転を速くするんだっけ?」
「うわ……、うさんくせー商品。そんなの効果あるかよ」
 友人の一人が、馬鹿にするように言った。思わず僕は熱くなる。
「おい、だったら実際に使ってみるか? ハンパじゃないぞ、この腕時計は! 他の受験生が全て書けない問題数でも、これを付けてるだけで俺の処理能力は数倍に跳ね上がる。具体的にいうと、一教科につき三十点は上がったかな」
「へえー……、そんなに変わるもんなのか」
「ああ、格段に違うよ。腕時計を付けているのと、そうでないのとじゃあ」
「―――俺がテレビで見たときも、ずいぶん騒いでいたけどさ。使用している本人が言うと説得力があるな。んじゃ拓也はもう、本番まで勉強はしないのか?」
「まあ、そのつもり。……てゆうかしなくても受かるしね」
 と僕が得意げに答えると、友人達はなんともいえない表情になった。そんな彼らも、試し にこの腕時計でテストを受けてみたら僕の気持ちが分かるだろう。だからそれ以上は何も 言わずに、ただ優雅に歌を歌うことにした。いままでの受験勉強のストレスを晴らすよう に。

 結局、その日家に帰ったのは十時過ぎだった。いつも通りに塾から帰宅するとだいたいこの時間なので、家族の反応にまるで変化はない。
「なあ拓也、これ見てみろよ。〝1―3―15〟で83万馬券なんてな……。父さんが買った馬まで、あと一頭だったんだ。くそー、できることなら過去に戻って買いなおしたいよ。1―3―15なんて……」
 父親にいたっては、大好きな競馬の愚痴をいまだにこぼしていた。先週の日曜日に行われたもので、大穴を狙って買った馬券が、JRAの過去最高の高額配当券まであと一息だったそうだ。
「またその話し? いいかげん、過ぎたことはあきらめなよ」
「いや、こればっかりは。ヒック……。悔やんでも悔やみきれない。1、3、15なんてな……」
 ハアー、という深いため息にのって、中年と酒の異臭が鼻を横切り、僕は後ずさりながら顔をしかめた。
「もう、くっさいなー。飲みすぎだって、また母さんに怒られるよ」
「ふん、いまは身体のことなんて気にしておれるか。……それにしても、拓也がそんなことを言えた口か? お前今日、塾に行っていないだろう」
「は、はあ? なんでそんなことが分かるんだよ」
「おや―――おかしいぞ―――十五の少年の口から、お酒の臭いがしますなあ……。はて、あの塾は勉強中の飲酒を許可していただろうか。あー、臭い、臭いぞお……」
「だ、だから、近寄るなって……。酒臭いのは、父さんだけだろ! 俺はもう勉強があるん だから、ヘンな言いがかりはやめてくれよ」
 しつこく付きまとう父親を押しのけて、僕は慌てて自室に退散した。
 その惜しかった競馬があってから、父親はやけに僕にからんでくる。そんなにショックが 大きかったのだろうか。
「さて。もう寝るかな」
 適当に服を脱いで、僕はベッドにもぐり込んだ。
 自分では、そんなにアルコールを飲んだつもりはなかったんだが……。母親にばれたら面倒なことになる。こういうときは外に出ないでさっさと寝るに限った。もちろん、勉強などするはずもない。
     
「ふぉ……。ふあーあ……」
 緊張感はまるでない気だるい欠伸が、僕の志望校である七原高校の受験会場に広がった。この眠気は、別に昨夜に徹夜で勉強したわけではなく、ただ単にいまが午前中だからだ。
 時間を見ると、試験開始まであと十分だった。周囲の受験生の多くは慌しくノートなどを 見直しているが、僕は意味もなく腕時計をいじっていた。
 この時計を手に入れてから、勉強はほとんどしなくて済んだ。不安は問題数が倍増したことによる時間制限だけで、一問、一問を解く力はもともとあったのだ。そして弱点だった速答も、電気信号が僕の頭を活性化してくれる。僕のペンさばきを見て受験官はさぞ驚くことだろう。
「えー、あと五分で試験を開始します。机の上には筆記用具と受験票だけを置いてくださ い」
 がさがさがさ、と物をしまう音がいっせいに響いた。僕はシャーペンを指で回しながら、 静かにそれを聞いていた。
「携帯なども、鞄の中にしまって必ず電源を切っておいてください。アラーム機能の付いた時計も音を鳴らさないようにしてください」
 僕の腕時計に、そんな生活性のある機能は付いていない。説明書を詳しく読んだわけではないが、電気信号さえあれば他に何もいらないはずだ。
「もう、少しで時間ですね」
 先頭の列の机だけに問題用紙が配られていった。パサ、パサ、という乾いた音に、なぜだか分からないが睡魔が反応する。けれどさすがにこの状況で欠伸をするわけにもいかないので、なんとか唇を握りしめて我慢した。
「試験中に鉛筆などを床に落とした場合は、席を立たずに手を上げてください」
 黒板には太い字で数学と書かれていた。この腕時計が効果を発揮する、最高の科目だ。成績も以前とは正反対になっている。
「もちろん、カンニングをしている人を発見した場合は、その者はただちに不合格となります」
 その下には、試験開始と終了の時刻が示されている。計算すると制限時間は一時間だったが、まぁ僕には関係のない話しだ。
「あ、それと言い忘れましたが、ひとつ注意点があります」
 まったく……、さっきから説明ばかりだ。
 腕時計の表示を時刻から電気信号に切り替えて、僕はめんどうくさそうに顔を上げた。
 受験官は教壇の中から小形の箱を取り出すと、みんなの視線を集めるように咳を鳴らした。そしてニ、三歩ほど前に進み、その箱の中身を宙に掲げる。
 キラキラと銀色の輝きが僕の両目に差し込んだ―――。
「このなかにも、今日付けてきている人がいるかも知れませんが。この腕時計は、試験中は外すようにしてください。もしも付けている人を発見した場合は、カンニングと同様に即不合格とします。電気信号が脳に届かない状態であれば、机の上に置いて、時計として使用することは許可しましょう」
 先生が説明している間―――体温が急激に下がったのと、頭の時間が止まっていた受験生は、たぶん僕だけにちがいない。
 その箱から取り出された腕時計を見た瞬間は、呼吸すらできなかった。
(そ、そんなバカな……)
 僕はとっさに両腕を机の下にしまった。 何とかこの状況を整理しようとするが、頭は混乱しきっている。
「それでは時間になったので、始めましょう。問題用紙を後ろの人へ回してください」
 裏返された紙が、数を減らしながら僕の方へどんどん迫っている。そのウェーブに参加するためには腕を上げなければならなかった。白い波しぶきはまだ前の方なのに、僕の背中はびっしょりと濡れている。
 受験官が使用禁止と掲げた時計と、左手に巻かれている時計は、まったく同一のものだった。はやく外さなければ、僕は不合格になってしまう。
『あ、その腕時計。ワイドショーかなんかで特集していたな。そう、俺がテレビで見たときもずいぶん騒いでいたんだ』
 カラオケボックスでの、友人の言葉が思い出される。
 僕はもともと、新聞やニュースをめったに見ない。だからこの腕時計がどれだけ世間で認知されているのかも、どれだけ非難をあびているのかも知らなかった。
 本当に、なにも知らなかった―――ずっと遊んでいた。
「……」
 前席の人からバトンが渡され、僕は右手だけで受け取ると、プリントを一枚置いて残りを 後ろに回した。自身への怒りや後悔で、利き腕はずっと震えている。
「全員に、問題用紙はいきわたりましたね。それでは―――試験開始!」
 なによりも、これから素面でテストを受けなければならない恐怖で、膝はずっと笑ってい た。
 数学のプリントに目を落とす。端から端まで文字が印字されており、問題数は百問以上あった。
「う……」
 びっしりと埋められた黒い記号の固まりに、僕は急に吐き気をもよおした。
 こうしている間にも、刻一刻と制限時間は削られている。けれど僕はまだ名前すら書けていない。ふと教室の時計を見上げると、すでに五分が過ぎていた。
(は、はやく問題を解かないと……)
 室内は、鉛筆やシャーペンのタイプ音が充満している。周りの受験生との差は開くばかりだ。
 なんとかして腕時計の機能を使えないだろうか―――。
 電気信号の力を借りれば、いまから始めても、優に他の生徒の回答数を追い抜くことができる。ただし観察している受験官の目が気になった。まるで時間を早めたように―――という宣伝文句さながら、アレの動作スピードは尋常ではない。自分でも制御がきかないのだ。腕時計の存在を知っている人から見れば、明らかに使用しているのがばれてしまう。そして、強制退出―――。
 ぶんぶん、と僕は頭を大きく振った。
 やはり時計は使わないで、試験に臨むしかないようだ……。しかし今の僕の能力でいったい何問記入できるというのか……。
(くっ……そ)
 絶望という負の感情が、胸の中をぐるぐると渦まく。
 シャーペンを握りしめたまま、僕の頭はうな垂れている。問題文を読むことすらできなかった。
(くそ、くそ、くそ……)
 後ろの方から、誰かの足音が聞こえる。受験官が生徒の見回りをしているようだ。
 まずい―――左手首にはあの腕時計が巻かれたままだ……。
 早く外さなければならない、頭ではそう理解しているのに身体が動いてくれなかった。
 床を叩く足音は、どんどん僕の方に近づいて来る。
 受験官が僕の席に来るまでの時間、そしてテストの制限時間―――。
 二重のタイムリミットが僕をおそう。
 ふいに、何かを根こそぎ破壊したい衝動に僕は駆られた。
(……くそ、くそ! 何でこんなことになったんだ!!)
 握りこぶしを作った右手が、激しく上下する。僕は左手を机の上に置くと、急いで腕時計 を外そうとした。消えかけの理性が命じた動作である。
 しかしその高価な外装を見たとたん―――今まで溜まっていた後悔や失望の念までわっと噴き出てしまった。
 腕時計の輝きが〝光〟として認識できない。ついさっきまでの希望の光は、見事に僕を裏切ったのだ。
 なにか頭の中に、とてつもなく巨大なバクダンの映像が浮かんだ。それが爆発すれば、全てを吹き飛ばしてくれるイメージだ。
 それでも僕は腕時計を外そうと試みた、が手元が定まらない。精神的ショックは、僕の運動神経に多大なダメージを与えてしまった。
(ちくしょう、手が動かない!!)
 僕がもたついている間にも、受験官との距離は短くなっている。
 コツコツコツ、という床を叩く足音。
 カリカリカリ、という周囲のペンの音。
 その全てが僕を焦らせる。
 そして、カチカチカチ、という時を刻む秒針の音が重なって、それはまるで頭の中のバク ダンの導線を火花が昇っているような感覚だった。その先に待っているものは―――莫大な爆音のバクハツだ。
「おや、その腕時計―――使用禁止と言ったものでは……」
 そして、タイムリミットが来た。
「くそぉぉおおおお!!!!」
 導火線のトリオが終わり、最後は、僕の悲鳴とバクハツ音の二重奏となった。壮大な音色が頭の中で鳴り響いて、一種の浮遊感を僕は感じた。
 身体の内側からこみ上げてくる熱に、僕は倒れそうになる。
 いや、すでに目の前は闇で覆われている。
 声はいつの間にか止まっていた。
 デュエットも終わった。
 じゃあ、その先には何が待っているんだろう……。
 ほどなくして―――僕の意識も止まった。
       *
「受験生用? なにそれ」
 どこからか、僕の声が聞こえている。
 それは紛れもない、僕の口からだ。
 しかし、何か遠くの方から届いた感じである。
「―――ただの高価なデジタル時計じゃないの」
 と、僕は言った。そしてすぐに、
(あれ……?)
 と、この奇妙な現象に、我を思い出す。
(こ、ここは……)
 僕の自宅だった。そしていま僕は、こたつに足を突っ込んでいるのだ。
 いや、そんなバカなはずがない。僕は、さっきまで、志望校の受験会場にいたんだから……。
「まあ、待て。いまから説明する―――」
 すると、今度は父親の声が上から降ってきた。なにか聞き覚えのある台詞である。
「……誤解しないようにまず断っておくが、何もこれは、カンニング機能のついた時計ではないからな。あくまでもお前の学力が必要なんだ! 悪い意味でこの時計に頼って、ハン パな心構えで試験に臨んで痛い目を見るんじゃないぞ!」
 ……思わず、耳をふさぎたくなった。
 僕が俯いて沈黙していると、テーブルの上に、腕時計のぶあつい説明書がドンと置かれた。
 まったく同じだった。
 始めてこの腕時計を買ってもらった日と、まったく同じように事が進んでいる。これは、 あの日の回想なんだろうか。それにしては、僕の意識がはっきりしすぎている気がするが。
(ま、まさか……)
 僕は何かに気付いたように手首に巻かれた腕時計を見ると、目の前の説明書を掴み取った。
「学校や塾でもちろん聞いていると思うが、今年から、高校受験の問題数は……」
 父親は僕にあの質問をしようとしたが、途中で口をふさいでしまった。僕の様子がおかしいことに、気付いたようだった。
 僕も父親の声を無視して、急いでページをめくっていく。腕時計の基本的な概要、電気信号の機能説明などには見向きもしない。
 すると、最後の方のページで「注意書き」と書かれた中に、薄黄色でマーカーされている 欄を見つけた。それはとても小さな文字で、わざと目立たなくしているような文章だった。 僕は食い入るようにその説明を読む。そこには、こんなことが書かれてあった。
『腕時計のバクダン機能―――受験の試験本番。あるいは日常生活においての非常事態、絶体絶命とお客様が感じられたときの最終機能です。
 時間を過去に戻します。
 初期設定では、始めて腕時計を身に付けたときへ、時間をさかのぼります。(これは腕時計を実際に巻いている時間であれば、変更が可能です)
 具体的にどういう状況下でこの機能が発動するかといいますと、お客様が精神に異常をきたしたとき、頭のなかにバクダンの映像が浮かび上がると思います。これは腕時計の電気信号の技術を応用したもので、脳から発進される、「絶望」、「後悔」、「激情」の三項目の信号に反応いたします。
 その三つの感情値がある一定の値をこえますと、バクダンが発生し、そして弊社が定めた限界値まで超過いたしますと、バクダンが爆発するのです。つまり、時間を過去に戻すスイッチが入ります。
 弊社としましては、お客様がこのバクダン機能を使わないで済むような、安全で快適な腕時計の使用を望むしだいでございます―――』
 その文章を、僕は少なくとも四回は繰り返して読んだ。それでようやく、この弊社が注意 していることの意味が理解できた気がする。
 つまり僕は、父親が購入してきたこの腕時計を、始めて腕に巻いた時間へ戻ってきたわけだ。いわゆる、タイムトラベルというやつだろう。原因は、受験会場での僕の精神状態が、規定値を超えるほどズタズタに傷付いたためらしい。
「は、ははは……」
 これを読んだときはちょっとした放心状態で声も出なかったが、しばらく経ってからそん な力のない笑いが口の端から漏れた。
 何だかこの一ヵ月間―――といっても現在はリセットされてしまったが―――腕時計の 機能に踊らされていた気分だった。
 いったい、僕は今まで何をやっていたのだろう。
 腕時計の電気信号に浮かれ、受験勉強をまるで放棄し、いざ本番になったら予期せぬ事態に絶望して―――バクダンが破裂して過去に逃げのびた。
 まったく……、自分が情けなくてしょうがなかった。
「どうだ、拓也。腕時計の機能がわかったか? これで問題数が多くても対応できるだろう」
 父親の顔を見る。
 あぁ、そうか……、と僕は思った。
 なぜ僕が時計を付けた瞬間に、父親は急に怒鳴ったのか―――。
 この事態を予測していたのだろう。いや、たとえ僕が過去に戻らなかったとしても、もしものときのために、二度と同じ過ちをしないようにあのタイミングで怒鳴ったのだ。父親の言葉は怠惰な性格をかかえる僕への警告メッセージだったにちがいない。そのことに、僕はいま気が付いた。
(父さん……)
 そこで、僕は決意をした。
 もうこんな腕時計には頼らない。電気信号、バクダン機能。いくら頭が良くなるからといって、しょせんは機械の幻想にすぎないのだ。自分の人生、高校受験は自分の力で乗り切ってやる!
「父さん。せっかくだけど、この腕時計は使わないことにするよ」
「えっ……、しかし拓也、このまえの模試の結果はあまり良くなかったんじゃないのか?」
「うん、そうだけど―――もういいんだ。自分の試験くらい、自分で勉強して何とかするよ。ありがとう」
 と言って腕時計を外すと、父親に手渡した。
 父親は少し困惑した様子だったが、自室へ引き返す僕の背中に小さく「がんばれよ」と言った口調から、もしかしたら僕が一度バクダン機能を体験して過去へ戻ったことを悟ったのかも知れない。僕は振り返ることなく、そのままリビングを後にした。
 部屋へ戻ると、僕は早速、机にむかって勉強を始めた。時間の定義を無視すれば約一ヶ月ぶりの受験勉強だった。
 まずは試験本番でも打ちのめされた、苦手な数学を克服しよう。
 そう意気込んで問題集を開こうとすると、ふいにドアがノックされ、父親がきまりの悪そうな顔で入ってきた。
「すまんな、勉強の邪魔をして」
「ううん、別にいいけど。どうかした?」
「いや、お前が受験勉強にはげむのはいいんだが。あまりしすぎても、ストレスが溜まるんじゃないかと思ってな。……どうだ、拓也。今度の日曜日に、久しぶりに父さんと出かけてみないか」
 普段とはちがう、複雑な表情をして父親は言った。
 やはり、父さんは、僕が一度絶望を味わって過去へ戻ったことに気付いたみたいだ。それで僕がショックを受けてないか気になって、こんなことを言い出したのだろう。
 いつもならこんな誘いはまず断るのだが、今回ばかりは素直にうなずくしかなかった。
「うん……、まあ、いいよ。今度の日曜日―――は特に予定は入ってないし」
「そ、そうか。この時期にあんまり遊んでいる余裕はないだろうがな。ちょっとした息抜きにはなると思うんだ」
「わかった、ありがとう。それで、どこに出かけるつもりなの?」
「ああ、実は競馬場に行こうと思うんだ。父さんはよく行っているが、たまには親子で予想をするのも楽しいと思ってな。ぜひ……、拓也の力を借りたいんだよ……」
 その父親の申し出を聞いたとき。僕の頭のなかで何か大切なものが音を立てて崩れていった。先ほど体験したバクダンの爆発よりも、さらに鈍い音色である。そしてさまざまな思考が、記憶とともに旋回した。
『いやー、拓也信じられるか。〝1―3―15〟で83万馬券なんてな……。ほんと、できることなら過去に戻って買いなおしたいよ。1―3―15なんて……、1―3―15なんて……』
 ―――いったい、僕の父さんは、僕のことをどこまで予想していたのだろう。
 先ほどまでの父親への感謝の気持ち、勉強への情熱はウソのように冷たくなり、その制限時間のないたった一つの疑問のために、僕はしばらく頭をかかえて過ごさなければならなかった。


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