夫婦の杯

「今夜もワインが、のどを潤す。なんとも素適な毎日じゃないか」
 その男は、地上二百階という高層マンションの一室で、夜景をみながら酒をあおっていた。室内に流れるジャズの音色が、彼の気分をいっそう心地よいものにする。
「だんなさま。おつまみはよろしいですか。新鮮なキャビアの盛り合わせなど、いかかでしょうか」
 タキシードで着飾った執事が、銀色のトレイを持って現れた。そのトレイは、欲しいものを何でも一瞬で転送させてしまう、いまどきの金持ちなら誰もが使っている品だった。そして男の表情を観察してもの欲しそうな顔をしていればすぐに駆け寄る。このロボット執事も、いまや当たり前の道具となっていた。
「うむ、一皿いただこう。君もいっしょに一杯どうだね」
「ありがとうございます。それならば、こちらのワインにしてはどうでしょう。奥様から、だんなさま宛てに八十七年のボトルが届いております」
 と言って、執事はトレイからリボンの巻かれたワインを一本引きぬいた。
「あいつからプレゼントか。珍しいことも、あるものだな」
「それとメッセージカードが一枚、添付されております」
「なに、私たちの結婚年のワインを送りますだと。そういえば、今日は結婚記念日だったな」
 男はさも忘れていた、というような口調で呟いた。執事の顔が反射的にほころぶ。
「お互いが別々に暮らすようになって、もう三年。すでに妻は新しい男を見つけて離婚も間もないと思っていたが……。まだ私たちの関係を、忘れたわけではないのだな」
 男はグラスにつがれたワインを、あかん坊をあやすように揺らした。二人の間に子供はできなかったので、彼は愛おしさに飢えていた。
「どうでしょう、だんなさま。これを機会に、奥様と仲直りをされては」
「ふむ。お前も長いあいだ一人では寂しいか」
「いえ、そんなつもりでは……」
 男がロボットの執事を購入したとき、年老いたメイドのロボットも付属されていた。二人のロボットは設定上、夫婦となっている。だが女が別居をしたときに、メイドもいっしょに家を出て行ってしまったのだ。
「我々はロボットですので、寂しいなどという感情は持ち合わせておりません」
 きぜんとした態度で執事は言った。だが、その表情には、ひどく人間的で複雑な影が、見え隠れしているようだった。
「しかし、あいつは自分から家を出て行ったのだ。仕事ばかりに熱を上げている私に愛想をつかしてな。だから、関係を元に戻すためには、当然向こうから先に謝るべきだ。私から戻ってきてくれなど、口がさけても言わんぞ!」
 そう吐き出すと、男はワインを一気にあおった。ロボットの執事は主人が気を悪くすれば口を閉ざすようプログラムされているので、いつも話しはそこで終わってしまう。
「いかがですか。お味のほうは」
「うむ。あいつにしては、なかなか美味い酒を選んだものだ。何というワインだ。聞いたことのない、銘柄だが……」
 男は満足そうにボトルを眺めた。ビンのラベルには、見慣れない異国の文字がつづられていた。
「ちょっと、拝借します」
 と言って、執事は指先にワインを一滴たらした。銀色の舌にそれをのせれば、液体にふくまれている成分を解析して製造元を瞬時に知ることができる。
「こ、これは」
「どうしたのだ、急に驚いた顔をして。そんなに、このワインは高価なものなのか」
 さらにワインを注ぎながら、男は楽しそうにたずねた。だが、執事の顔は明らかに困惑していた。
「だんなさま。いま調べましたところ、このワインはどのメーカーで作られたものでもありません」
「ほう。ということは、妻が私のために、わざわざオーダーメイドしてくれたのか」
 それを聞いて、男の機嫌はますます良くなった。しかし、執事の指摘がそのむやみな高揚に歯止めをかけた。
「それは存じませんが、このお酒は明らかに、第三者の手が加えられています」
「ふむ。なにか引っかかるものの言いかただな。いったい、どういうことだ」
「大変申し上げにくいことですが……、このワインからは、毒が検出されました」
 カランカラン、と派手な音を立てて男の手からグラスが落下した。潮が引くように、彼の顔はみるみる青くなる。
「な、なんだと! いま、毒といったのか。あいつが私に毒をもったというのか」
「落ち着いてください、だんなさま。まだそうと決まったわけではありません」
「いいや、それ以外に考えられん。妻は私を殺そうとしたのだ! そして財産だけを奪って、新しい若い男と暮らすつもりだろう。ああ、なんということだ。まさか毒殺なんてことを、あいつがやるなんて……」
「お待ちください。もう少し飲んでみなければ、この毒がどういう作用をもたらすのか分かりません」
 執事はうずくまる男を制して、ボトルを直に口で咥えて一気に飲み込んだ。だが彼はもう諦めたように、ぐったりとしていた。
「そんなことをしても無駄だよ。毒の作用だって? 分かりきったことじゃないか。私がいちばん苦しむように作られた、猛毒にきまっている」
 唇をかみしめ、男は気付いたように喉をおさえた。しかし、ワインを調べ終えた執事の顔は、意外にも明るかった。
「だんなさま。ひとつ、私は確信したことがあります」
「なんだ。私があと一分もせずに死ぬということか。そんな回りくどい話はいらんから、はっきり言ってくれ」
「では申し上げます。分かったことは、単純です。奥さまは、まだだんさまのことを愛しておられます」
 どういうこと、と言うひまもなく、執事は胸ポケットから印刷された紙切れを男にわたした。そこには、解明された毒の名称が恥ずかしげもなく書かれていた。
 それを見た男は、急に力がぬけたように倒れこんだ。そして安堵とばかばかしさと嬉しさが溶け込んだ、ひどく人間的に豊かな笑みを浮かべた。
「はっ、はは。なんということだ。まさか、こんなことが」
「私の早とちりでした。このワインには、猛毒など入っていなかったのです」
「お前が気休めのつもりで、こんな結果を出したのではあるまいな」
「もちろんです。私の思考回路に、そのようなプログラムはされておりません」
「それもそうだな。しかし、まだ信じられんよ。まさか、あいつが私に惚れ薬などとは……」
 床に這いつくばったまま、男の肩が小さく震えている。執事は転がったグラスを拾い上げ、静かにワインを注いだ。
「いかがですか。もう一杯」
「いや、結構だよ。そんなものを飲む必要はない。私はこんな毒に作用されなくとも、妻のことを愛しているのだからな」
 男は立ち上がると、思いついたように書斎へ走り、紙とペンを持参した。興奮しているのか、おぼつかない手つきでメッセージを書く。
「これを、至急あいつに送ってくれ。惚れ薬などを仕込まずとも、おまえに対する愛は変わらない。またいっしょに暮らそう……、とな」
「はい。かしこまりました」
 メモを受け取ると、執事は手にしていたトレイにそれを乗せた。すると、一瞬にして、彼の手書きの想いは妻のもとへ運ばれていった。そこで初めて、男はこのコンピュータ化した世界を素晴らしく感じた。

「あっ、手紙がきたわ。ふふ、どうやら上手くいったようね」
 ここは郊外に建てられた、マンションの一室。
 突然、トレイに現れたメモを見て、その年老いたメイドは嬉しそうにつぶやいた。
「奥さま、だんなさまから手紙が届きましたよ」
 と、彼女は軽快な足取りでリビングへ向かった。そこにはソファーに寝転んだまま、うっとりとワインに見入っている女がいた。
「あら、またあの人から。まったく、せっかちね。いま、私が夫に向けて手紙を送ろうと思っていたところなのに」
「そうですね。一刻も早く、奥さまの気持ちを知りたかったのでしょう」
「もちろん、またいっしょに暮らすに決まっているわ。惚れ薬を使うなんて、あの人も可愛いところがあるのね。それで、手紙にはなんて書かれていたの」
「はい。こちらになります」
 にこにこと微笑みながら、メイドは女にメモを手渡した。ほろ酔い気分の彼女は、それがすり返られたメッセージだとは、もちろん気付くはずもない。
「もう限界だ。こんな薬にたよってしまうほど、私は君のことを愛している。また、いっしょに暮らしてくれないか。ふふ、あの人ったら」
 女は魅せられたように、その手紙を何度も何度も読み返した。そして、メイドに便箋とペンを持ってくるように命じた。
「この手紙をあの人に返してちょうだい。ワインは飲んだけど薬の効果は全くありません。いつだって、私はあなたのことを愛していたんだから……、とね」
「はい。かしこまりました」
「はあ、これでようやく寂しい別居生活も終わりね。まさか、こんなふうに仲直りできるなんて思いもよらなかったけど。ごめんなさいね、長いあいだ私たちに付き合わせてしまって。あなたも夫と離ればなれで寂しかったでしょう」
「いえ、そんなことは……。私たちはロボットですので、寂しいなどという感情は持ち合わせておりません」
 きぜんとした態度でメイドは言った。だがその表情には、ひどく人間的で複雑な影が、見え隠れしているようだった。


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