落し物

 駅前の喫煙所に、黒い革財布が落ちていた。何人かはその財布を拾ったが、中身が空っぽだと分かると元の位置にそっと置き直したり、残念そうに舌打ちしたりした。
 財布を落としたのは、駅のそばの大学に通う男子学生だった。研究室の飲み会で隣に座った教授の鞄から財布を盗むと、中身を全て抜き取って帰り道に捨てたのだ。教授は店を出るときに財布が無いことに気が付いたが「大学に忘れかな」と言って大騒ぎしなかった。男は、盗んだお金をその日の内に風俗に使い、免許証やクレジットカードは自宅のごみ箱に捨ててしまった。
 特に動機のない、酔いに任せた衝動的な犯行だった。そのため、男は三日も経った頃にはそのことを忘れかけていたし、研究室で教授に呼び出されたときも提出済みのレポートに関する小言だろうとしか思っていなかった。
「どうして呼び出されたか分かっているよね」
 教授のもったいつけたような口ぶりに、男は顔を強張らせた。
「いえ、分かりません」
「本当かな。そんなはずはないと思うんだけどね」
 男は「すみませんでした」と吐露しそうな気持ちを何とか抑えて、白を切り通した。すると、教授は当初、予想していた提出物に関する注意を淡々と伝えて彼を解放した。後から同級生に聞いたところ、あの飲み会に参加した者は全員、呼び出されて同じようなことを言われたらしい。どうやら教授は犯人探しをしているようだった。
 数日後、男はやや人目を忍ぶように駅前の喫煙所に向かった。しばらく辺りを探し回り、生垣の根本で砂埃にまみれた黒い財布を回収した。男が呼び出されて以降、教授は事あるごとに彼を呼び付けて課題や雑用を押し付けるようになった。以前、とっさに見せた男の動揺に感付いたのか、彼を犯人だと決め付けて嫌がらせをしているふしがあった。男は就職が迫っていることもあり、推薦を貰うためには教授の心証を悪いままにしておくわけにはいかなかった。
 翌日、男は誰もいない研究室の倉庫に忍び込むと、部屋の奥にある棚と床の隙間に盗んだ財布を隠した。飲み会の日の記憶は曖昧だが、教授は毎日のようにここに出入りしているので落し物として偽装するには悪くない場所だった。財布には免許証、クレジットカードに加えて散財した二万円も戻してある。彼にとっては痛い出費だが仕方がなかった。
 落し物としてのリアリティを担保するために、男は、あえてすぐに見つからない場所に隠した。ただ、いくら待っても発見されないので逆に男は焦りを募らせた。一週間が過ぎた頃、このままでは埒が明かないと思い再び倉庫に忍び込んだ。隠し場所を変えるために財布を拾い上げたとき、以前よりも財布が奥に入り込んでいるような気がした。嫌な予感がして中身を確認すると、財布から現金だけ抜き取られていた。誰か、他の学生がねこばばしたようだった。
 男は、腹立たしい気持ちでいっぱいになったが、まさか自分の金が盗まれたと騒ぎ立てるわけにもいかない。なけなしの二万円をさらに補充して、元のあった場所よりも見えやすい所に置き直した。入口からも目視できるこの位置ならすぐに発見されるはずだった。
 その日、倉庫に出入りした者は教授を含めて何人もいたのに、誰も財布のことを口にしなかった。日も徐々に暮れかけた頃、男はしびれを切らして倉庫に向かった。自分が発見者の役回りをするのはわざとらしいので避けたかったが、財布がまた奥に押し戻されているだけでなく、今朝、入れたばかりの現金が男を嘲笑うかのように消失しているのが分かると我慢の仕様がなかった。
「教授、倉庫に財布が落ちてましたよ」
 男は、苛立ちを押し殺して努めて自然に振る舞った。教授は一瞬の間を置いて、「本当に私の財布なの」と目を丸くさせた。
「間違いないですよ。教授の免許証が入ってますし」
「本当だ。おかしいな」
「おかしいって、何がですか」
「私の財布、以前、駅の近くで見つけたんだ。でも、中身が入っていなかったからその場に捨てたんだよ。だから、ここで見つかるはずがないんだけどなあ」
 男はとっさに頭を回転させて「く、黒の革財布ですし、似たような財布を見間違えたんじゃないんですか」と言い返した。教授は首をかしげながらも頷いて、「まあ、それしか考えられないよね」と不敵に笑った。
 男は何とか誤魔化せたと思い、そそくさと教授の元を離れた。そのため、「臨時収入はもう終わりかな」という教授のわざとらしいひとり言が、彼の耳には届かなかった。


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