お礼

 高校から、部活を終えて帰宅していると、路地の暗がりでうずくまっている初老の男が目に止まった。
「どうかしたんですか」
 中村達也は、小走りに男のそばに駆け寄った。
「うっ、すいません。急に、腹が痛み出して」
 苦しそうに、男は腹を押さえて唸っている。中村はすぐにポケットから携帯電話を取り出した。
「救急車を呼びましょうか」
 男の顔は青白く、症状はひっ迫しているようだった。周りに人はいないし、中村だけでは手に負えそうもない。
「い、いや、いいです。大丈夫です。この鞄に薬が入っているので、ちょっと出してくれませんか」
 男とブロック塀の間に、茶色い大きく膨らんだ鞄が、隠すように置かれていた。中村は急いでそれを受け取ると、一気にジッパーを引き裂いた。
「白い錠剤が入ったビンです」
 と言われたが、なかなか見つからない。鞄の中にはいろんな物が散乱していた。ボールペン、財布、鍵の束、それになぜかくしゃくしゃのパンストまでもが詰め込まれている。手当たり次第にそれらの物をかき分けていくと、何か大きなものが底から顔を出した。
(なんだ、これ)
 黒い布に包まれて、表面は紙のような手触りだった。この鞄はなかなか底が深いのだが、その大半をこいつが占めている。気になって、包みの隙間に手を滑らそうとしたが、
「ま、まだですか」
 と焦ったような男の言葉に、はっと我にかえる。見ると、男の顔には脂汗が浮かんでおり、さっきよりもひどく歪んでいた。今は他人の持ち物を、物色している場合ではない。早く薬を探さなければ。
「あっ、ありました。これでしょう」
 鞄の奥底で眠っていた小ビンを男の前に差し出した。
「ああ、これです、これです。薬さえ飲めば、すぐに良くなるはずです」
「水でも買ってきましょうか」
「いや、大丈夫です。そのままで飲めますから」
 男は頼りない手つきでビンを開けると、錠剤を三粒、口に運んだ。すると今まで乱れていた呼吸がゆっくりと整っていき、痛みが回復していく様子が見て取れた。
「ふう、大分落ち着いてきました」
「良かったですね」
「これもあなたのおかげです。本当に、ありがとうございました」
 男は大きな息を吐くと、彼に深々と頭を下げた。
「いやいや。別に大したことはしてないですよ」
 中村は照れくさそうに頭をかいた。そして、そのまま立ち上がって家路へ付こうとすると、
「ちょっと待ってください」
 とふいに背中越しに声を掛けられた。
「このまま、手ぶらでお帰りいただくのは心苦しいので、よかったら、私にお礼をさせてくれませんか」
「えっ、いいですよ。そんな気を使わなくて。僕はただ、鞄から薬を出しただけですから」
 中村はすぐに断ったが、男は引き下がらなかった。
「いや、そんなことを仰らずに。実は、私の自宅が目の前にあるので、どうかそこでお礼をさせて下さい」
 男は通りの奥のアパートを指差して、にっこりと微笑んだ。中村は迷ったが、やはり、わざわざ自宅で持て成される程のことはしていない。
「やっぱり、遠慮しときます。大した事してないので」
 そう断って彼は歩き出そうとしたが、
「そこを何とか! せっかく助けて頂いたんだから、何かしないと私の気がおさまりません」
 と、男はしつこく言いつのり、中村の服の袖をつかんだ。彼はややぎょっとして、男の手をおそるおそる引き離す。どうにも、お礼を受け取るような気分になれなかった。
「本当に結構ですって。それに早く帰らないと、これから塾もありますし」
 思わず、口から出た嘘だった。だがそうでも言わないと、男の追求から逃れられないような気がした。男の目つきは、妙に必死だった。
「そ、そうですか。じゃあ、あまり引き止めては逆にご迷惑ですね」
「すいません」
「いえいえ、そちらが謝ることではありません。でも、ぜひ名前だけでも、教えてくれませんか」
「ああ、中村達也っていいます」
「中村さんですね。本当に今日はありがとうございました。命の恩人です」
「そんな大それたもんじゃないですって。それじゃあ、家すぐそこみたいですけど、気を付けて帰ってくださいね」
 中村は頭を小さく下げて別れを告げると、走るようにしてその場を後にした。
 
「ふう、なんとか抜け出せた。かなりしつこいおじさんだったな」
 苦笑いをしながら、そっと後ろを振り返る。男はまだ動かずに、中村の方に視線を送っていた。目と目が合ってしまい、気まずそうに会釈した。
「それにしても何だったんだろう、あの布の中身」
 しばらく歩いてから、彼はあの鞄のことを考えた。
「他の物は適当に放り込んであったのに。あれだけ、やけに大事そうに包んであったよなあ。何だろう一体」
 中村は、ぼんやりとその正体をいくつか思い浮かべてみた。が、すぐにどうでもよくなり、今年入学したばかりの高校のことや、今日の晩御飯のメニューの予想をすることに頭を切り替えた。
     
「……」
 逃げるように走り去る少年を、男はじっと見詰めていた。まだ薬を飲んだばかりなので、呼吸は微かに乱れている。
「中村、達也か」
 ぎこちなく会釈を投げかける少年の名前を、男は確かめるように呟いた。
「あの制服はたしか、K高校だったよな」
 そして少年の姿が曲がり角に消えたのを見届けると、足元の茶色い鞄に向き直った。薬をしまいながら、少年がいったん手を伸ばしかけた黒い布を慎重に取り払う。
「……ばれてないよな」
 きれいに長方形に整えられた大量の紙幣の束を見て、男は心配そうに言った。
「俺も軽率だったな、金の入った鞄を他人に開けさせるなんて。まあ、紙幣は布に包んであったから大丈夫だと思うが、このパンストを見て変に思わなかったかな」
 男はまだ汗で湿った黒いパンストを取り出して、くしゃくしゃと手の中で丸めた。
「あのまま帰したのはまずかったか……。だが、今あまり手荒なことをすると、こっちの体がもたないからな。それにしても、銀行強盗の最中に発作が出なくて良かった」
 ふう、と一つ息を吐くと、男はゆっくりと立ち上がった。
「まあ、名前も通っている学校も分かったし。何かあれば、またお礼を渡しに行けばいいか。今度は断られないように……」
 男はニヤリと引きつった笑みを浮かべ、腰に差し込んである黒い鉄のカタマリを摩りながら言った。
 そして少年に教えた、人気の無さそうなアパートとはまるで反対の方向へ、のっそりと歩いていった。


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