深夜。会社に残って、ひとりで仕事をしていると、突然、咳が止まらなくなった。
 うがいをしたり、息を止めたりしても効果がなかった。はじめは大したことはないだろうと仕事を続けていたが、もう、一時間以上も咳をしていて、喉の奥がヒリヒリと痛み、頭もぼうっとしてきた。
 しゃっくりを百回すると身体が衰弱して死ぬというが、咳も同じように死につながるのではないだろうか。朦朧とする意識のなかで、そこはかとない恐怖が押し寄せてくる。たまらなくなって、僕は119番に電話をした。
「はい、どうされましたか」
「げほっ……、あ、あの、げほっ……、せ、せき……、げほっ、がはっ……」
 抑えようのない咳のせいで、言葉を話すことすら困難だった。電話口の相手は、僕のただならぬ様子に危険を感じたのか、激しく問い掛けてきた。
「どうされました!? どこか具合が悪いのですか。そちらの場所を教えて頂ければ、すぐに救急隊員が駆けつけますよ」
 今いる場所と言われて、僕は深呼吸をした。それさえ伝えれば、すぐに救急車がやって来て、この苦しみから救ってくれるのだ。息を必死に整えて、僕は会社の名前を相手に伝えようとした。
「と、とう……、げほっ……、ごほっ、ごほっ、とっ……、げほっ……、きょか……、ごほっ、がはっ……、く」
「えっ、何と言いましたか? すいませんが、もう一度お願いします」
 僕の懸命な努力もむなしく、相手は会社名を聞き取れなかった。
 まずい。咳はどんどん激しさを増して呼吸すら苦しくなってきた。このままでは本当に命が危ないと思い、なんとか居場所を伝えようと、声を振り絞った。
「げほっ……、僕は……、げほっ……、とう……、ごほっ、ごほっ……、ときょ……、げほっ、きょく……、げほっ、に、います……」
「もしもし! すいません、また聞き取れませんでした。あなたは、いまどこにいるんですか」
 相手に伝わらない歯がゆさに、僕は涙が出そうだった。自分の居場所を言うだけなのに、どうしてこんな苦労をしなければならないのか。
 しだいに意識は遠のき、もしもし、もしもし、という受話器からの呼びかけにも反応できなくなっていく。
 相変わらず、咳は止まらない。こんな状態で僕が「東京特許許可局」にいると伝えることなど、ほとんど無謀に近かった。


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