脚本家

 パソコンのタイプ音が部屋に充満している。
「くそ、課長のやろう、俺一人にこんな仕事を押し付けやがって……」
 上村章一は、自宅の机に積み上げられた書類の山を怨めしそうに眺めた。
 昨日のことだった。突然、課長に呼ばれて紙の束を突きつけられたのだ。
「明日までにまとめておいてくれ。上村くんなら、これくらい訳もないだろう」
 躊躇する間も与えられず、彼は徹夜の作業を余儀なくされている。あのハゲ課長め、と自分も髪の毛のことで悩んでいるくせに、仕事をしながら課長の頭を何度も罵った。
「大変だな、上村。俺が少し手伝ってやろうか」
 隣に座っていた同僚の新井が、半分だけ持って帰ってやると申し出た。意気消沈している彼を見かねたようだった。しかし、上村は断った。
「あのハゲ課長には腹が立つけど、お前はこれから合コンなんだろ? そっち楽しんでこいよ。それに、たまには徹夜で仕事をするのもおもしろそうだ」
 今さら後悔しても仕方がないことは分かっているが、上村はあのときの愚かな自分を呪った。できることならタイムマシーンに乗って、数時間前の自分に現在の淀んだ顔で教えてやりたい。どうだ、これが本当におもしろそうだと思うか、と。
 時計を見ると、夜中の一時を回っていた。七時に帰宅をして、それから着替えて、飲まず食わずで書類をまとめている。なんと会社思いの男であろうか。上司に押しつけられた理不尽な仕事にも、一日をかけて、全力で取りくんでいるのだから。
(……これで俺をリストラにでもしたら、ただじゃおかないぞ、あのハゲ頭)
 と、またしても課長の頭を罵った。たぶん、これで五回目だ。
――トゥルルルルルルルルル。
 唐突に、電話が揺れた。誰だろう、こんな時間に。
「もしもし、上村です」
 受話器を上げ、少しトーンの下がった声でおきまりの台詞を言う。
「……もしもし」
 返事がない。こんな切羽詰まった状況のときに、いたずら電話であろうか。苛立った口調で再度たずねるが、相手は黙ったままだった。
(まったく、ふざんけんなよ。こっちは時間がないっていうのに)
 乱暴な手つきで、電話を叩きつける。そしてまたイスに戻ろうとするが、
――トゥルルルルルルルルル。
 と、赤いランプが小気味よく点滅した。あーくそ、と怒りを吐き出しながら、受話器を取った。「誰だよ、お前」ときつく問いただそうと思ったが、万が一ということがあるので、普段の対応をとる。
「もしもし、上村です」
「……」
 またしても返事はない。
「もしもし……。いたずら電話なら他の番号にしてください」
お薦めの番号はハゲ課長の電話だよ。と、それはさすがに胸にしまって、荒々しく電話を切った。しかし、彼もこれで終わらないことは分かっていた。こういう人間は、こちらが思い切って威嚇をしないかぎり、いつまでも同じことを繰り返すのだ。
――トゥルルルルルルルルル。
 ほらな。意味もなく勝ち誇った顔をすると、上村は疲弊しきった体に鞭を打って息を吸い込んだ。そして小さな穴には入りきらないほどの怒声をぶつける。
「いい加減にしろよ、くそ野郎! 俺は今死ぬほど疲れてんだよ、お前の馬鹿な遊びに付き合ってられるほど暇じゃないんだ!! 今度掛けてきたらぶっ殺すからな!!」
と言い終えると、電話が壊れるほどの勢いをつけて受話器を振り下ろした。
「はぁ、はぁ……」
 さすがに呼吸が苦しい。自分でも驚くほどの大声が出た。下の階の住人が駆け上がってきそうだが、それでも今の怒りをありったけ言い切った自分が、誇らしくさえ思えた。
――トゥルルルルルルルルル。
 床にへたりこんでいる上村は、立ち上がることもできなかった。これで四回目。たったいま、あれほど怒鳴って、最後には殺すと脅しまでつけたのに。
――トゥルルルルルルルルル。
 コール音が止むことはない。胸を掌でおさえながら、かすれた声で台詞を述べた。
「もしもし……、上村です……」
「……」
 どうやら、相手の台本に自分の言葉は記載されてないようだ。電話をかけ、上村が応答したらただ沈黙をする。まったくもって性質の悪い、陰気な脚本家だ。
「あ、あのですね……、何が楽しいのか分からないけど、本当にもう止めてもらえませんか」
 上村も、精神的にまいっていた。
「あと、数時間で、書類をまとめなきゃならないんですよ。時間がないんですよ……。お願いします、掛けてこないで……」
 震える声でそう言い終えると、静かに受話器を置いた。疲労と眠気とストレスで、頭が腐りそうだった。ベッドに倒れこむと、そのまま痛む頭をかかえてうずくまった。

 しばらく、そこで寝転んでいたが、電話は鳴らなかった。安堵のため息をつくと、煌々と輝きつづけるパソコンを睨みつける。スクリーンセーバーをのんきに踊らせている画面が、見ていて無性に腹ただしかった。
(とりあえず……、顔でも洗って気分を変えよう)
 まだ仕事は山のように残っている。早く終わらせなければ、朝になってしまう。力なくベッドから転げ落ちると、床を這うようにして部屋の扉までたどり着いた。
 ノブにしがみつき、何とか立ち上がると洗面所へ向かった。この数十分の間に、何十年も老いたような気がする。足はふらふらで、ほんの数メートルの道のりが果てしなく思えた。
 洗面台に立つと、電気も点けずに顔面に水をこすりつけた。だいぶ気分は良くなったが、あまり乱暴に脳を揺らすと吐き気におそわれる。まるで崖の先端にかろうじてしがみついているような心境だった。
 タオルを取ろうと腕を伸ばしたが、上村の右手は宙をさまよった。カンカンカン、と洗面台のわきに置いていたスプレーがやかましく転げ落ちる。スプレーのラベルには発毛促進という文句が書かれていた。
 上村はそれを元の場所に戻すと、昨夜、タオルは洗濯機に放り込んでいたことを思い出した。代わりににシャツで拭こうと顔を近づけたが、汗の臭いが鼻を刺激した。疲労の汗、冷や汗、脂汗。さまざま汗が絡み合い、異臭を放っている。これではとてもいい気分で仕事に打ち込めない。
 いったん外に出ると、明かりを点け、タオルが置かれている足元の棚を開けた。白く清潔なタオルがきれいに並べられている。一番上のタオルを手にとると、顔を覆ったままゆっくりと立ち上がった。
「ぷはー」
 やはり、洗濯したばかりのタオルは気持ちがいい。思わず、そんなだらしのない喘ぎが漏れる。
(よし、さっさと残りの仕事を終わらせるか)
 と意気込んで、タオルを目の前からどけた。
――ここは、洗面所だ。もちろん、洗面台には鏡が置いてある。
 鏡は目の前のものを正直に映し出す。継母の鏡も、正直に、世界で一番美しい女性の名は白雪姫だと口にした。
――ずしゃん!
 結果、鏡は無惨に打ち砕かれた。
「そ、そんな、馬鹿な……」
 上村の右手の甲から真っ赤な血が滴り落ちる。鏡を拳で打ち砕いたのだ。
「お、お、おれの……」
 小刻みに痙攣する左手で、自分の頭をさわってみた。さらさらさらと、抜けかけだった髪の毛が陽気にすべり落ちていく。
「う、うわぁああ!!」
 上村は驚愕の悲鳴を上げた。ずいぶんまえから気にはしていたのだ。自分の頭が薄くなっていると。
「早めに対処したほうがいいぜ。でないと、課長みたいにツルツルになっちまうからな」
 同僚の新井に自分の頭を指摘されたときは笑ってやり過ごしたが、内心は動揺しきっていた。
(俺の頭が……、俺の髪が……)
 毎晩、毛生え薬を頭に付けることを日課としていた。だが不安は消えなかった。いつか抜けるんじゃないか。課長みたいにつるつるになるんじゃないか。その怯えた気持ちを紛らわすために、上村は職場で課長の頭をさんざん笑いの種にしていた。
 しかし、上村の頭は見事に禿げていた。
 疲労。ストレス。理由はたくさん思い当たるが、何も考えられなかった。ただ、絶望した。
(何で……、こんな目に……)
 壁によろめきながら、不安定な足取りで部屋に戻る、が、何もする気になれなかった。ベッドに身をあずけようとするが、跳びはねるようにあとずさる。
 真っ黒い髪の毛が、白いシーツを埋め尽くしていたのだ。これほど恐ろしい光景はない。あまりの衝撃に、上村の頭からさらに髪の毛が舞い降りる。そして糸の切れたマリオネットのように、その場へうずくまった。
「うっ…、ううう……」
 嗚咽を漏らしながら、みじめに泣きじゃくる上村。
――トゥルルルルルルルルル。
 そして、五回目のコール音。上村はただただ泣き続けている。
――トゥルルルルルルルルル。
――トゥルルルルルルルルル。
――トゥルルルルルルルルル。
 耳障りな電子音が、弱りきった頭部をさらに刺激する。これ以上、禿げてはたまらないと、上村は力なく受話器を手に取った。
「……」
 とても、いつもの台詞を言う気にはなれなかった。
「くっくっくっく……」
 遠くの方から、相手のこもった笑い声が聞こえた。聞きおぼえのある声だった……。
 そして、電話は切れた。

 翌朝。上村は失意の底で苦しんでいたが、なんとか気を取り直して出社した。というわけではなく、もう全てがどうでもよかった。もちろん、課長から命じられた書類など持って来ていない。
「お、おはよー……、上村」
「どうしたの、上村君。その頭っ」
 みんな彼の頭をじろじろと見つめ、吹きだす人もいる。

「ははははは。しかし、一晩の間に上村の頭も見事に剥げたな」
オフィスから遠く離れた喫煙所で、新井の醜い笑い声がわき上がった。
「そんなに笑ったら可愛そうだろ。それにお前だって、最近、頭気にしているんじゃないのか」
「……あ、ああ? お、俺は大丈夫だって。うちの親父なんか六十歳こえているけど、まだふさふさだしよ」
「まぁ、対処するなら早めにな。じゃないと課長や上村みたいにツルツルになっちまうぞ」
「あはははは、勘弁してくれ。あんな頭になったら、俺は恥かしくて外も歩けないよ」
 新井は笑っている、が、内心は穏やかではない。適当に笑ってごまかしたが、同僚の指摘に、背筋を冷たい汗がすべり落ちる。
 そして、新井は机に戻ると、隣で俯いてる上村の頭と自分の頭とを見比べた。髪に手をかき入れ、そしてまだまだ俺は大丈夫だ、とくだらない優越感にひたっている。
「新井くん、ちょっと来てくれ」
 そんな新井を、背中越しに課長が手招きをする。
「何ですか、課長」
「すまないんだが、この書類を明日までにまとめてほしいんだ」
 脚本家の台本は昨日と全く同じである。


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