ダイイング・バイブレーション

 もうすぐ、僕は死ぬ。恋人に頭を後ろから殴られたからだ。

「あたしと別れてほしい」 
 大学の倉庫。使われなくなった実験器具やパソコン類が乱雑に押し込められていて、人の出入りはほとんどない。彼女にここへ呼び出されたときは情事の誘いではないかと興奮していたのに、まさか別れ話を切り出されるとは思いもしなかった。 
「真奈、冗談だろ。どうしてそんなことを言うんだよ」
「他に好きな人ができたから」
 その人とは大学の同級生だった。僕もよく知っている男である。これだけでも腹立たしいのに、ずいぶん前からそいつと関係をもっていると聞いて頭に血が上った。
「ふざけるな。僕の気持ちはどうなるんだ。絶対に別れないからな」
 と叫んで部屋を飛び出そうとした。しかし、別れ話のショックのせいか足元がふらつく。体勢をくずして、とっさに近くの棚にもたれかかったとき、後頭部を鈍い衝撃がおそった。
 そのまま床に倒れると、全身からあっという間に力がぬけていく。頭のなかは疑問符でいっぱいだった。 
 なぜ、僕が殺されなければならないのか。真奈にとって、そんなに僕は邪魔なのか。遠くの方で、彼女の地鳴りのような笑い声が聞こえる。愛しあっていたはずの人に裏切られて悲しみが心を満たした。
(くそ、このまま死んでたまるか……) 
 やがて、悲しみは怒りへと変わった。なんとか彼女が犯人であるメッセージを残したい。不条理な死に対するせめてもの抵抗だ。
 ただ、時間はあまりない。床にうつぶせになったときから視界がぐらぐらと揺れている。死が迫っているためだろう。
 僕は必死に考えた。手近に書くものはない。出血がないので血文字も無理だ。それに、ダイイングメッセージとはっきり分かるものでは彼女に隠滅されてしまうだろう。うまい暗号を考えなければならない。
 だが、いまの僕にそんなものが作れるだろうか。頭をはたらかせても何も浮かばない。絶望がひしひしと押しよせ始めたとき、右ひざに振動を感じた。
 携帯電話のバイブレーション――そうだ、携帯電話があるじゃないか。
 僕は一気にひらめいた。ポケットから携帯電話を取り出して、胸の下に隠す。そして最後の力を振り絞ってボタンを押した。
 きっと、誰かが気付いてくれるはずだ。メッセージを残したことに満足して、僕の意識はゆるやかに薄れていった。

「ひどいありさまだな」
 その警部は部屋に入るなり顔をしかめた。現場は、死体だけでなく、足の踏み場もないほどに物が散乱している。
「死因は?」
「後頭部の強打とみられます」若い刑事が答えた。「ただ、ちょっと気になるところが……」
「なんだ」
「男の被害者が、携帯電話をつかんだまま死んでいるんです」
 警部は男の死体を覗き込んだ。
「胸の下にあるな。助けを呼ぶためにはおかしな格好だ。画面は待ち受けのままだが、親指が#のボタンに添えられているな……」
 警部は口をつぐんで考えこんだ。そして携帯電話のボタンをしばらく見つめたとき、はっとしたように言った。
「おい、男の恋人の名前は何だ」
「真奈、ですが」
「なるほどな。分かったぞ。これは男のダイイングメッセージだ」
「え、どういうことです」
「なに、かんたんなことだよ。#はマナーモードのボタンでもある。そして恋人の名前はマナ。つまり、男は恋人を犯人だと教えているんだ」
「ということは」
「ああ、彼女に詳しく話を聞く必要がありそうだ。さっそく恋人を重要参考人として手配してくれ……」と言ったところで、二人の刑事はほとんど同時に吹き出した。「ま、それも当の本人が死んでいなければな」
 と警部はぼやきながら、男の後ろで棚の下敷きになっている女を見やった。
「死因はどちらも後頭部の強打だよな」
「はい。男は棚から落ちてきたパソコン、女はオシロスコープの角で頭をやられています。死亡推定時刻も同じですね。警部の推理どおりとしたら、男はなんでこんな真似をしたんでしょう」
「さあな。もしかしたら、恋人に殺されたと勘違いしたのかもしれないが、死人に口なしだ。どんな事情があったにせよ、二人とも地震による事故死で間違いないだろう」


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