かかあ天下

 真夜中。自宅のリビングの物かげから、急に飛び出してくる男がいた。ソファーにふんぞり返ってテレビを見ていたM氏は、驚きの声を投げかけた。
「だ、誰ですか、あなたは。いったいどこから入ってきたんですか」
「うるさい、黙れ。はやく金目のものを出すんだ。さもないと、痛い目に合うことになるぞ」
 男は握っていたナイフを、M氏に突きつけて言った。彼は怯えて動くことができなかった。
「どうした。はやく金を出すんだ」
「すいません、それはできません」
「なぜだ。殺されてもいいっていうのか! 俺は本気だぞ」
 男は怒鳴りながら、M氏の首へナイフの刃を近づけた。彼は涙目になって言った。
「ひー、やめてください。わかりました、お金はいくらでも差し上げます。けれど、私は恐怖で腰が抜けてしまいました。動くことができないんです」
 見ると、M氏の腰から下は微動だにせず、上半身だけが蛇ににらまれた蛙のようにぷるぷると震えていた。
「なんだと。この臆病者が」
 男は呆れたように吐き出し、ナイフを握る手に力が入る。しかし、これ以上、M氏を怯えさせても逆効果だと考えた男はゆっくりと彼から離れていった。
「よし、分かった。お前は動かなくていい。どこに現金や、宝石の類があるのかだけ教えろ」
「ああ、すいません。それは無理です」
「貴様、俺をおちょくってんのか! さっきは金ならいくらでもやると言ったじゃないか」
 鬼のような形相で、男は声を荒げる。だがM氏はしきりに、すいません、すいませんと泣き喚くだけだった。
「すいません、すいません。乱暴はしないで下さい。お金を差し上げたいのはやまやまなんですが、私はこの家のどこにそれが置いてあるのか分からないのです。家の財布は、うちの家内が全てにぎっているものですから」
「何だと。そんな嘘が俺に通用するとでも、思っているのか!」
「ひい……、う、うそじゃありません。本当です。うちの家内は、ひどく怖いんですから」
 M氏のあまりの怯え様に、男はめんどくさそうにため息を吐いた。どうやら彼の家内の恐妻ぶりは、本当らしい。
「そうか、それは分かった。お前が知らないんじゃしょうがない。その恐ろしい妻というのは、いったいどこにいるんだ」
「た、たぶん、二階の寝室で寝ているかと」
「そうか、じゃあこの部屋まで連れて来い」
「えっ、でも私はこの通り、足が全く動かない状態でして……」
「あー、そうだったな。しょうがない、俺が直接、尋ねることにしよう。二階の寝室だったな。分かっていると思うが、警察なんかに通報したらただじゃおかないからな」
 最後に鋭い睨みをひとつ残して、男はリビングを後にした。
 その様子を心配そうな目つきで見送るM氏。
「大丈夫かなあ……」
 彼の胸の内は、不安でいっぱいだった。
「うちの家内は、目覚めが最悪に悪いんだ。こんな真夜中に起こしたりしたら、殺されるぞあの男」
 M氏が男の心配をしているのも束の間、二階から闇をつんざくような悲鳴が、女の鈍い雄叫びとともに湧き上がった。


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