夢の中で、僕はマフラーになっていた。
どうも身体が暖かくて、もぞもぞするなあと思っていたら、僕はマフラーだったのだ。
(おお、これは珍しい夢だな。僕はマフラーになっている)
夢の中で夢だと気付いた。めったにないことだ。たぶん、体がマフラーになるだなんて珍事が起こったので、何かのバランスがくずれて理性が夢に支配されなかったのだろう。根拠はまったくないが。
(それにしても、これは誰の首だろう。がっしりしているから男性かな)
マフラーの先端に目があるようだ。ちょうど死角になっていて、顔は確認できない。巻きついている感覚と、すぐそばにある手の甲の角張った感じから、性別は男だろう。
どうやらここは、車の中のようだ。そして男は助手席に座っている。ずっと動かないところをみると眠っているのだろう。
窓の外は真っ暗だった。車内のデジタル時計もAMを表示している。
(こんな真夜中に、運転しているのは誰だ。ほっそりしているから女性かな)
ハンドルを握っている両手を見て、僕はまた性別だけ判断した。さいわい、真上にいる男とはちがって女の顔は確認できる。ハンドルから運転席へ、ちょいと視線をずらしてみた。
(ああ、なんだ。涼子じゃないか)
運転していたのは、僕の恋人である涼子だ。どうも見覚えがあるなあと思っていたら、ここは彼女の車の中だった。
(そういえば、今夜は僕の家に涼子が泊まりにきたんだっけ……)
そして一緒に眠りについて、この夢は、彼女と同じベッドの中から見ているのだろうか。
しかし、記憶があまりはっきりしない。なんとなく彼女の手料理を一緒に食べたような気はするのだが、それもどこか薄ぼんやりしている。今夜のことでさえも、なかなか思い出すことができなかった。ここが夢だからか、自分がいまマフラーだからか。脳に白い霧がかかったような、不思議な気持ちだった。
(……)
不思議な気持ち。
彼女の顔を見てから、たしかに変な気分だった。涼子の顔を眺めているだけで、妙に胸がざわつく。あまりいい感覚ではない。
「ごめんなさい、かずよし……」
ふと、彼女が運転しながら呟いた。一義とは僕の名前である。
(ん? なぜ彼女が僕に謝っているんだ)
いやな予感がした。そういえば僕が巻いているこの男性―――顔は見えないけど、決して彼女のお父さんや親戚の子供という年齢ではない。同世代の気がする。もしやこの男は、涼子の浮気相手ではなかろうか。
(それで、こんな真夜中に運転したり……。僕に謝ったりしたのか)
夢の中とはいえ、彼女が浮気していることはいい気分ではない。正夢ということもありえる。よく見ると、彼女の表情は引きつっていて、罪悪感をひしひしとかみ締めている様子だった。 もしも、僕がいま声を出せたらどんな反応をするだろう。気の弱い涼子のことだ。泣いて謝るかも知れない。
「うっ、うっ……。ごめんさい、ごめんなさい、かずよし……」
そんな僕の想いが通じてしまったのか。声も出していないのに、彼女はいきなり泣き出してしまった。
(なんだ、なんだ。本当に泣いてやがる。ここは夢だから、僕の考えているとおりに事が運ぶのか?)
だったら面白いな、とついニヤけてしまう。涼子の涙はつぎからつぎに溢れている。彼女は気が弱く、おとなしい性格であるがゆえに、一度、爆発すると感情の制御が効かなくなるふしがあった。
「ごめんさい、ごめんなさい、かずよし……。でもね、あなたがいけないのよ。あなたが、浮気なんてするから……」
浮気。
その言葉に、僕はマフラーながら耳を疑った。
(あれ、ちょっと待てよ……)
いま、僕が人間ならば、上半身が電気ショックを浴びたような動きをしただろう。それほど、彼女の口から漏れた 『浮気』には、動揺してしまう理由があった。
(浮気、うわき……。そうだ、たしかに僕は、会社の同僚と関係を持った。けれど、それを彼女が知っているなんて……)
夢の中とはいえ、信じられないことだった。目を覚ましかけているのだろうか。脳が何かを思い出そうとしている。今夜、涼子が家に来たときに浮気に関するトラブルがあったのか。そうでないと、夢の中の彼女が僕の浮気を知っている、という設定はつじつまが合わない。
(二人でいっしょに食事をしたあと。そういえば、その後に、何か口論したような……)
必死に思い出そうとするが、頭の思考回路がうまくはたらいてくれない。
いま、涼子が僕を触ったら不信に思うことだろう。こんな乾燥した十一月の日に、マフラーがひとりでに、ぐっしょりと濡れているのだから。
「そうよ、あなたが悪いのよ。あのメールを私が突きつけたときに、素直に謝ってくれたら。けど一義が、へんに嘘をついてごまかすから……」
あのメール、とは涼子でない女の子からのメールのことだろう。それを、彼女は勝手に見てしまったのか。
(そうだ、携帯のメールだ。夕食を済ませた後、僕がトイレに行っているすきに彼女が僕の携帯を見ていたんだ。だけど僕はプライバシーの侵害がとか何とか言って、素直に認めずに、へんに嘘をついて……)
ごまかした。
そう、彼女がいま言ったとおりに。
(しかし、これは……、夢の中の台詞だろう。なんだ、いまの感覚は? なにか、このずれはおかしくないか……)
夢の中の登場人物の言葉に、現実の体験を思い出す。こんなことってあるのだろうか。
僕はいまマフラーだ。それは何故だろう。何か、現実世界で強い意識がはたらいて、マフラーになった夢を見ているのか。
(僕が、マフラーになりたいって願ったのか? それはいつだろう。僕が人間をやめて、マフラーになりたいって願ったのはいつなんだ?)
そのとき、ふいに涼子が恐ろしいひとりごとを言った。
「私だって、殺すつもりなんてなかったわ……」
僕の頭から、自分がマフラーである疑問は吹き飛んだ。
(―――殺す。殺す? 殺す!?)
そこで、何かが弾けた。
(いったい誰が、誰をだ。私だって……? ごめんなさい、かずよし……? ま、ま、まさか、僕は)
殺す。その一言が、さっきまで頭の中を覆っていた靄を、一気に振り払ってしまった。
(そうか、あのとき。今夜、携帯のメールを突きつけられたとき。僕は涼子と口論になった。彼女は一度、怒ると止まらない。僕はその剣幕に押されて、逃げるように部屋を出た。そして台所に向かった。長い時間、言い争ったせいか喉が渇いてしょうがなかった)
コップに水を注いで一気に飲み込む。その間、この窮地をいかに乗り切るかということで、頭の中はいっぱいっだった。そのおかげで、僕は背後からの足音に気付かなかった。
(ふいに、背中に気配を感じた。振り向こうとしたら、僕の目の前をひらひらしたものが上から下へかすめていった―――)
そのあとは、もう苦痛と感情しか記憶に無い。
僕は彼女に後ろからマフラーを巻かれて、一気に首を絞められたのだ! そうだ。全て思い出した。僕がマフラーになった理由。
(えっ、うそ。えっ、え゛……)
突然、おとずれた死の恐怖に頭は錯乱していた。
(いやだ。死にたくない。死にたくない! 死にたくない!! このまま死ぬくらいなら、マフラーになってでも生き延びたい)
マフラーを握り締めながら、僕は生きることを切望した。そして、その願いは叶った。ここは夢の中じゃない。僕がマフラーになったのは現実なんだ!
「ここまでくれば、大丈夫かしら」
いま僕はマフラーだ。そしてある男の首に巻かれている。
その男とは……、僕だったのか。マフラーに巻かれていたのは、僕が巻いていたのは死体になった自分だったのか。
そして、車が止まる。外はどこか山奥のようだ。彼女によって、死体になった僕とマフラーになった僕が運び出された。
「はぁ……、はぁ……っしょ」
一気に視界が持ち上がった。眼下にはダムが広がっている。
「ばいばい。かずよし」
そんな薄っぺらい別れの挨拶で、涼子は手を離した。彼女は熱しやすくて冷めやすい。たぶんもう、僕を殺したことの罪悪感も残っていないだろう。
そして、僕らは放り投げられた。
マフラーとはいえ、ダムの中にずっといれば溺死になるのだろうか。
冬になりかけた冷たい水のなかで、僕はいつの間にか二回目の死を待ち望んでいた。
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