青空に、太くて濃い雲がばさっと浮かんでいて、今日もそれなりにいい天気だった。
太陽の日差しはそこまで強くなく、昨日の快晴に比べるとそこまで暑くないかな―――と須賀テツオは、高速道路を歩きながら思った。
まだ午前中なので気温もどこかひんやりしている。ただ高速道路は、下界に比べると太陽との距離が近いので、体感的になかなか涼しさを感じることができない。
という理由で、テツオはいま上半身はだかだった。
身に付けているものといえば首にかけているタオルだけで、学校の夏服はすかすかの鞄に詰め込んである。下は、長ズボンの裾をまくって無理やり半ズボンにしている。履き物も校則で指定された靴ではなく百円のビーチサンダルだ。
(あっ……、あれ、隣のクラスの奥村だ)
前方に見慣れた後頭部を発見したので、目を細めてみると、中学の友人である奥村が高速道路の傾斜をしんどそうに登っていた。
違うクラスだが、テツオとはけっこう仲がよく、休日に二人で遊ぶこともあった。
近くまで行ってみようか。
彼とテツオの位置はそんなに離れていない。少し走れば、すぐに追いつける長さである。
しかし、テツオは彼のもとへ行くことをためらった。特にいまケンカをしているとか、気まずい関係というわけではなかったが、まあ別にいいか、と二人きりになることにいまいち乗り気になれなかった。
それに相手も、テツオがそばに行けば少し困った顔をするだろう。そのことを想像したらなおさら彼は積極的になれなかったし、たぶんなる必要もない。
テツオは、このまま一人でぼんやり登校することにした。
(……それにしても、奥村のやつ、なかなかハジけてるな。いくら夏だからって、パンツいっちょで歩く度胸はまだ俺にはないよ)
真っ赤なトランクス一枚に、サンダルという奥村の開放的な服装に、テツオは肩で苦笑いした。学校に着いたら少しからかってやろう。
(……けどまぁ、似たような格好で歩いている人は、他にもたくさんいるけどな)
テツオは周りを見回して、心の中で呟いた。
彼の上半身裸も、奥村のパンツ一枚という格好も、そこまで周囲から浮いていない。見るからに社会人という人はスーツを着込んでいるけど、ほとんどの学生や一般人は肌を露出させた服装だ。
下着だけという人も奥村以外に五人見かけたし、あれは違う学校の鞄だったけど上下ビキニで登校している女子のグループもいたほどだ。
(こんな世界になったせいで、人から注意されることが減って、みんな羞恥心が薄れてんだろうな……)
とちょっと難しい言葉を使って、彼は現在の状況を分析してみた。
テツオ達の町から、音が根こそぎ消えてしまって、三日が経った。
政府が定めた期間は十日なのでこの状態があと一週間は続くことになる。
(……まぁ、思っていたよりも順調だな。音がなくなったって、あんがい普通に暮らしていけるもんなのか)
正確にいえば、音は消滅しているのではなくて、吸引しているらしい。
風の音、虫の鳴く音、車のエンジン音、人の話し声―――。それら全ての音を、百メートル間隔で設置されたサイレントという機械から、消しているのではなく吸い取ってデータとして保存もしているそうだ。
しかし、どのみち人間の耳に入らないのでは、ストックしていても無駄だろうとテツオは思っている。何のためにそんなことをしているのか、不思議というか、不可解でしょうがない。
(ふう……、やっぱ歩いていると暑くなってくるな。オレも、奥村みたいにズボンも脱いでしまおうか)
と、身体中に湧き出た汗をぬぐいながら、彼はズボンのホックを摘んだ。
もう少し先に行けば、急カーブで、影になった部分がある。そこならわざわざ無人の料金所に行かなくても、ズボンくらい脱ぐことは容易い。
だらだらと、頬をつたう汗のような足取りで、彼はゆるい坂道を下った。歩きながら左手に巻いていた腕時計を操作する。
(あー、なんだもう、四十℃超えてるじゃないか……。これじゃあ、昼になったら昨日とそんなに変わらないよ)
画面を「時刻」から「気温」に切り替えて、テツオはうんざりという顔をした。これで連日の四十超えである。
ついでにスイッチをさらに捻って、画面を「二酸化炭素」にしてみた。
(……まあ、何とか順調には減っているみたいだな)
小さな液晶画面のなかで、赤い折れ線グラフが、プロ野球でのフォークの軌道を描いている。それはこの町の二酸化炭素の排出量が、かなり減っていることを表していた。
そしてまた画面を最初の表示に戻すと、すぐに視界から時計を遠ざけた。デジタルで書かれた「12/4 AM8:37」という文字が、なんだか嫌味みたいで、彼はあまり時計を見るのが好きではない。
どこかのニュースのコメンテイターが言うには、この地球はそろそろ限界らしい。
限界とは、このままの状態で人間が生活していると、ほぼ百パーセントにちかい確立で地球は滅んでしまうという意味だ。
そのXデーがいつのなか、残りの日数を一般の市民は知ることはできないが、体感的に星の危機を感じることは毎日できる。
……とにかく、暑すぎるのだ。
地球温暖化という言葉に、人々が本気で重圧を感じ始めたときには手遅れなくらいに地球の気温は上昇してしまっていた。
直接の原因は、二酸化炭素の著しい増加である。けれどこんな事態になってしまった本当の要因は、過去の人類が、地球の環境問題に対して具体的な対策を何も取らなかったからだと、いつかのコメンテイターは非難していた。
(……)
目的地に着いたので、テツオはちょっと人目を気にしながらズボンを脱ぎ始めた。みんなタオルで汗をぬぐったり、携帯用の冷房機を身体に当てたりして、周りはあまり見ていない。
(うーん……。もうちょっと、高級なパンツはいてくりゃよかったかな)
しわくちゃにヨレたトランクスを見て、思わず自分で苦笑いした。こんな格好で外を歩くのは、昔だったら考えられないだろう。
(しかも汗を吸ってるから、なんかムズムズするし。これからは海パンを履いて登校しようかな)
まだこれからも猛暑は続くようだ。こんな安っぽいパンツよりも、水着のほうが見た目も悪くないし、涼しげでいいだろう。今日にでもテツオは新しい海パンを買うことにした。
(しかし……、やっぱり不公平だよなぁ)
ぐっしょり濡れたズボンをバッグにしまって彼はまた歩き出した。パンツの隙間から風が入りこんで少しくすぐったい。
(昔の人たちが残した問題に、なんで子孫の俺たちが必死にならなきゃいけないんだ? 同じ人類なんだから、まあしょうがないんだろうけど……。時代が違うだけで、こんなのってないよなあ。祖先のツケを払うために、俺たちは音まで奪われてるっていうのに……)
テツオはなんだか無性に腹立たしくなって、耳の穴を意味もなくかき回した。もちろん身体が感じるのはその指の感触だけで、ごそごそという音ですら鼓膜には届いていない。
この現象―――地球環境保護法案第十二ヶ条である、「サイレントCO2」が成立したのは、先日のサミットのときだ。
サイレント。つまり無音。
音を消すことで、二酸化炭素の排出もなくしてしまおうという意味がこめられている。
CO2の主な人工的な発生源は、工場、飛行機、車の排気ガス、それに人間の呼吸である。その全てを一度にゼロにしてしまうような、何かそんな思い切った状況は作れないだろうかと、週に一度のペースで行われる世界環境サミットで、首脳たちはせっぱ詰まった様子で議論していた。
そのとき、とある先進国の科学者がこんな発言をした。
「私どもの研究所で、開発が進んでいる一つの機械があります。名を「ミュート」と言いまして、ミュートは、その近辺で発生したあらゆる音を弱める機能をもっています。もともとの使い道は、飛行場や車両に設置して騒音を少なくするものでしたが……。しかし、このミュートはさらに効果を高めることが可能です。音を操作する機能を改良すれば、全くの無音(サイレント)の状態もつくりだせるでしょう。それを町のいたる場所に設置すれば、耳もとで銃声が鳴り響いたとしても人間がその音を聞き取ることはできません」
何だって。いつの間にそんな機械が発明されたのだ、とほとんどの国の首脳は驚きの表情をあらわにした。なぜなら、そんなものが存在すれば、間違いなく最強の軍事兵器になりうるからである。
「―――そして、その音を無くすことと、二酸化炭素の関係性ですが」
目の色が変わった各国の代表を尻目に、科学者は説明を続けた。
「いま私は耳もとで銃を発砲しても気付かないと言いましたが、つまりそれは、人間の危機に対する反応が鈍くなっていることを指しています。そんな状態で、果たして危険な工場での作業、飛行機、車の運転ができるでしょうか?」
「ふむ……。耳の機能を麻痺させ、視界だけでそれらの仕事をするのは至難の技だな。それに運転手だけではなく歩行者も音が聞こえないのだから、万が一のときにクラクションを鳴らしても、車が近づいていることすら気付かない」
「はい。言葉が音にならないのでは、何か異常な音も、第三者の「危ない!」という掛け声も耳に届きません。ということは、恐ろしい確立で事故が多発することになります……。つまり音の消えた町では、いま挙げたようなCO2を発生させる全ての活動を禁止することができるのです―――というよりも許可できませんね」
「……なるほど。確かに、視界だけで危機を回避するのは困難だ。けれど人間の呼吸とはどういうつながりがあるんだ?」
「はい。それにつきましては、私は専門の知識がないので不鮮明な部分もありますが。音が無くなれば、もちろん他人との会話も不可能になります。人が会話をやめて、言葉を発しなくなったらいったいどうなるでしょうか」
語尾をややつり上げて、科学者は、会場一帯に視線を泳がせた。
この問いともいえる言葉に先ほど相槌をした男が反応した。その男の机に置かれた、約二百の国名がそれぞれ書かれているプレートの頭文字は、Jだった。
「会話がなくなれば、声が消滅すれば沈黙するしかない……。黙ることが絶対条件となれば、人は無闇に口を開かなくなる。……つまりそれは、人間の呼吸量も一定に抑えられるということか!?」
「……たぶん、そういうことになると、私は考えています。口を開かなくても鼻だけで呼吸は可能ですから。ただこの件に尽きましてはあくまでも空想論ですので、先ほど述べたとおり確証はありません」
科学者はそういい終えると、今度は音を弱められるという「ミュート」の説明に入った。実際に、ミュートを使って音が弱まっていくさまを目の当たりにすると、会場は異様にやかましくなった。
「音をなくすことで、工場や自動車の運転を禁止する条件は整う! この案に私は賛成だ」
「……しかし、全くの無音状態とはいったいどういうものなのか。人間の精神が崩壊してしまうんじゃないか!?」
「そうだな。音の無い世界、というものが想像できん。こんなやり方はいくらなんでも無謀だろう」
「だが人の呼吸まで抑制できる方法は、これ以外に考えられるか。多少強引でもやるしかない。人類に、そんな悠長に議論している時間はもう残っていないはずだ」
音を消すことに、賛成案と反対案がさまざまに飛び交った。が、結局は、地球壊滅のタイムリミットまで残りわずかということよりも勝る意見がなく、この方法を推し進めることで一致するしかなかった。
「ありがとうございます。ミュートの改造は単純なものですので、すぐにでもこの法案を開始することができるでしょう」
「……しかし、いきなり全世界で始めるのは何より早急すぎるだろう。いくら時間がないとはいえ、実験は必須だ」
「そうだな。一番の懸念は、人の精神に対する影響だ。果たして、音の無い町で人は正常に生きていくことができるのか……?」
「それにつきましては、私どもの国で早速試してみるつもりです。無音状態での人間のストレスの問題や、二酸化炭素の減少率など、あらゆるデータを計算しなくてはもちろん全世界で開始することなどできません。……ただ自分たちの国だけでなく、他国の町でも実験をしてみたいのですが、よろしいでしょうか。気候や人種で、差異があってはいけませんからね。ということで、まずはアジア方面の国のかた。できれば北よりの地域で、協力を申し出てくれる国は……」
―――という提案があって、その要請にすかさずJの首相が手を上げたから、自分たちの国でサイレントCO2の実験が行われることになったのだ。といつかのニュースで、テツオは聞いたことがあった。
そのニュースを見たときは、どこか遠い世界の絵空事のようで、まさか自分たちの町がその実験の対象になるとは夢にも思わなかった。どうやら日本でもっともCO2の排出が多い町が、このテツオたちが住んでいる町らしい。なんとなく、彼にとっては意外で哀しい事実だった。
しかし実際に、この町では音が聞こえないということで、あらゆる乗り物が禁止されている。車やバス、電車もない。ベルが聞こえないという理由で自転車も対象にされてしまった。
だから人々の移動手段は、はかったようにタイムスリップされた。
なかにはローラースケートやキックボードを使う人もいたけど、いままで何度となく衝突の場面を目撃しているので、これも時間の問題だろう。
結局は、みんな歩くしかないのだ。こんなふうにテツオ達が高速道路を堂々と歩いているのも、歩行者があふれすぎて地面の道路だけではおさまらないからだ。
あまりに家が遠くて、歩いて通うのは無理だという人は会社や学校でも欠席扱いにならないそうだけど、それでもみんなどこか投げやりだ。
昨日も、学校へ行ったら彼のクラスは半分もいなかった。授業がひたすら黒板を写すか、問題を解くしかないので、仕方がないといえば仕方がない。
(あーあ……、なんかかったるくなってきたなぁ。学校は今日も暑そうだし)
パンツ一枚なんて格好になったせいか、妙にテツオはだらけた気分になった。
彼の中学は私立で、クーラーはちゃんと完備していてもスイッチを付けることを許されていない。これも二酸化炭素の増加をおさえるというわけで、先生らが徹底しているのだ。この町の大人は変にやる気があって困る。
(室内は、外に比べて暑さの種類がちがうんだよね。それに声が出ないおかげで、無駄に愚痴ることもできないし。なんか我慢大会してるみたいな雰囲気なんだよなぁ……。もう、このままサボっちまおうかな……)
と、テツオも例によって投げやりな気分におそわれた。
もともとゆるやかっだった歩調が、さらに速度を落とす。
頭のなかで、これ以上進むかどうかの議論が始まった。そしてそう長い時間は掛からずに、結論は、足を止めるほうの動作に落ち着こうとしていた。
そんなときだ。
(―――うわっ!!)
ふいにテツオの背中が激しく押され、彼は思わず地面に転げそうになった。
両手で前方の空気をかきわけて、なんとかバランスを取る。
体制が安定したところで彼は怪訝そうに振り向いたが、後ろを見なくても、こんなことをする人物の顔は容易に想像できた。
「……」
案の定、二ヒヒヒと意地悪そうな笑みを浮かべてテツオの反応を楽しんでいるのは、幼馴染の織田夏美だった。
(あーくそ……。またやりがやがって……)
と、脱力したような笑顔で、彼は夏美を見つめた。
何度やられてもこのアクションは防御することができないし、気配が皆無なので心臓が飛び上がるほど驚いてしまう。寿命が縮まるからいい加減やめてくれと言っているのに、夏美は聞こうとしない。音が吸い取られてから、彼女はこの挨拶を毎朝繰り返していた。
「……」
この日も、反省の様子はまったくないようだった。
そのことを確認すると、テツオは彼女のほうをにらみながら携帯電話を取り出した。そしてメールの新規作成ボタンを選び、急いで不満の文句を打ち始める。
『いい加減にしろって。わかるだろ。音が聞こえないんだから、驚きがハンパじゃねーの! 毎朝、毎朝、オレで遊ぶなよ』
文末に怒りの絵文字をそえて、水戸黄門のような手つきで彼はその画面を夏美に突きつけた。料金がかかるので、実際に送ったりはしない。
彼のメッセージを読み終えると、彼女も携帯電話を手にとって、メールをさらさらと打ち出した。
『そんなこといったって、テツオの反応おもしろいんだよ。ちょっと押しただけなのに、あんなに飛び上ってさ。さすがリアクション芸人は、ひとあじちがうわ』
というようなことを、夏美はメールで言った。
ところどころにふくませた絵文字と同じようなスマイルを、彼女はみせている。小さい頃から、彼女はいつも陽気だ。
『誰が芸人だよ、ダレガ。夏美が勝手にはしゃいでるだけだろ』
それに対して彼は、表面的には、顔もメールもしかめっ面だった。
しかしその文句を見せると、彼女はさらに笑い出してまた携帯を操作した。
その間、夏美の表情からそれとなく返しの言葉が予想できたので、テツオもさらにメールを打った。
『そんなに怒らないでさ。せっかく音が聞こえないんだから、楽しまなくちゃ損よ? それにこの実験が始まるまえ、総理大臣もテレビで言ってたじゃない。みなさん、ぜひこの状況を開きなおって考えて、ぞんぶんに楽しんでくださいって』
『……そのおかげで毎回心臓飛び出していたらな、俺は身体がもたない』
互いに携帯電話を見せ合って、声の代わりにメールで言葉を伝える。
これが、音が消えた町での一般的な会話の方法だ。
『とにかく、これからはもっと普通に挨拶してくれよ。……それじゃあ、俺はもう帰るから。学校は一人で行っといてな』
『えっ、なんでよ。もしかして学校サボる気?』
『だって、教室くそ暑いじゃん。いまどきクーラーが付いてないなんて、人間のすることじゃない。それじゃあな』
と文末にダッシュマークを添えて、テツオも駆け出そうとした。だが回れ右をした瞬間、夏美に腕をつかまれてしまった。
『だめ! いくら学校が暑いからって、ずる休みは私がゆるさない。ひっぱってでもこのままつれて行くからね』
ぎゅっと彼女の右手が、テツオの腕を締め付ける。
彼はその手をタップして、痛い痛いというジェスチャーをした。しかし本当はぜんぜん痛くない。
『おい、そんな強くにぎるなって。わかった、学校行くから……。もう、はなしてくれよ』
『そう言って、はなしたらいきなり、逃走しないでしょうねえ』
疑いのメールと視線を送る夏美に、彼は首を左右に振ってみせた。
そんな必死なアピールをしたわりには、テツオにしてみれば、このまま捕まれたままでも別にかまわなかった。というより、夏美に出会った時点で、ひとりで学校をフケようなんて気はもうとうない。たださっきのお返しで、彼女の反応を楽しみたかっただけだ。
しばらくして、渋々といった感じで夏美は手をはなした。そしてまたメールを打ち出した彼女の隣で、彼は大げさに腕をさすったりしている。
「……」
夏美を横目に、テツオは思う。
さっき彼が奥村を見つけたとき、迷ったあげく声を掛けなかった。それは二人ともまだこのメールでの会話に慣れていないからだ。
まず、言葉を文字にして伝えるというのが面倒だし、声で感情表現ができないからいちいちオーバーアクションをしてしまう。それについつい声で反応しようとして、思わず口をふさいだり―――とにかく人と会話をすることが億劫になるのだ。だから彼は、一人で登校することを選んだ。
(それにしては……)
彼は、夏美とコミュニケーションをとることに、ほとんど不便さを感じない。それは彼女の性格が明るいからだし、二人が幼馴染で、相手の考えていることが何となく分かるからでもある。
しかし理由としては―――テツオが、夏美のことを以前から好きだということが一番大きい。
「……」
テツオは、夏美が好きだ。けれど告白なんてできるはずもない。いまさら、どんな顔ですればいいのか分からないし、単純に恥ずかしいというのもある。下手に自分の気持ちを伝えて気まずい関係になるくらいだったら、いまの状態のままで良かった。
ただ音が吸い取られて、みんな歩くようになってから、毎朝彼は夏美と出くわしている。通常なら彼女は電車で、彼は自転車で通っているので顔を合わすことはない。
確かに背後からの奇襲攻撃はたまらないけど、その点でいえば、テツオはこのサイレントCO2に感謝すらしていた。
「……」
そして、もう一つ。
テツオがこの音の無い世界に、気に入っていることがあった。
それは、この沈黙の間に三回ほど実行していることだ。
「……」
―――と、テツオは夏美に言った。
けれど相手の耳には届かない。機械が、彼の声を吸い取ってしまうから。
根性なしとは自分でも思うけど、それでも、彼の心境は青空のようにスカッとしている。普通の世界では、とうてい言えないこと。あの総理大臣の言ったとおり、彼もこの状況を開き直ってぞんぶんに楽しんでいるようだった。
「……」
どんな言葉を伝えたのか、それは本人しかわからない。
ただ相手が唇の動きをじっと見て、勘がもし良かったら、彼が〝好きだ〟という言葉を夏美に呟いたことを悟られるかもしれない。もしかしたら、だ。
―――と、ふいに彼女の指が彼の肩をノックした。
またさっきの台詞を吐きそうになって、心臓が何かに例えるくらい跳ね上がる。
このノックはメールができましたという一般的な合図だ。彼が平静をよそおって振り向いた先には、携帯の画面が待っていた。
『ねえ……、さっきから気になってたんだけどね……。テツオ、なんでパンツ一枚なの?』
ぎくり、とした。
彼にとっては、そこは夏美に一番触れてほしくないところだった。
『だって、今日めちゃくちゃ暑いから……。この格好でも、まだ脱ぎたいくらい。明美はよく耐えられるなあ』
彼女はちゃんと、中学指定の制服を着ている。それでも、特にきつそうな顔はしていない。
『私はこの格好でも平気だよ。まあ最近、服を着ないひとが多いなぁとは思ってたけど……。それだったら、もうちょっとマシなパンツなかったの?』
『う、うるさいな……。だから今日、新しい海パン買うつもりだったんだよ! 分かったよ、ズボンはけばいいんだろ。はけば』
メールを見せると、彼は立ち止まって慌てた様子でズボンをはいた。そしてその頬は、間違いなく、暑さだけが理由にならないほど紅く蒸気している。
学校へ着くと、テツオはシャツを着てサンダルも履き替えた。予想していたとおり、冷房の着いていない校舎内は異常な暑さだ。
夏美とはクラスが違うので、教室のまえで自然に別れた。テツオと彼女は幼稚園からの付き合いだけど、同じクラスになったことは数えるほどしかない。
ふと前を見ると、奥村の姿が目にとまった。廊下の窓際で、風に当たって涼んでいる。
(……ま。結局俺も、パンツ一枚になっちまったしな)
声を掛けようと思ったが、先ほど、自分が夏美にパンツのことを言われて後悔したばかりだ。そのことを思い出すと、とても彼をからかう気にはなれない。話題に触れる事すら、テツオにしてみれば避けたかった。
(なんだ、今日は昨日よりもさらに少ないな。皆やっぱりやる気ないんじゃないか)
「1年C組」の教室に入ってみると、席が埋まっていたのは両手で数えられるほどだった。しかもその大半は、いびきをかいている。黒板には大きく「自習」の文字。監督する先生もいない。
(いや、まぁ……、今はこれでいいんだよな。とにかく二酸化炭素を使わずに、環境のことだけ考えて生活していたら……。真面目に勉強なんかしなくたって、地球は滅ばないし)
教団の上に数学の問題用紙が山積みされていたが、彼はそのまま素通りして自分の席についた。そして周りと同じように、彼も目を閉じる。音が無いせいか、暗闇のなかでは眠気はぞんぶんに発揮された。
その後も、自習の授業がずっと続いたようだ。
定期的に彼は目を覚ましたけど、先生の姿は一度も見ていない。黒板の自習の筆跡と、プリントの厚みのちがいで、何となく科目が変わったことは確認できた。
「……」
と、彼は大きな欠伸を吐いた。時計をみると十二時を回っていてちょうど最後の授業が終わった時刻だ。音が吸い取られてから、午前中で学校は終了する。
みんなが帰りの支度をしているところをみると、どうやらHRも済んだらしい。テツオも鞄をかついで、教室を出た。
(まったくこれじゃあ、ただ眠りに学校に来ているもんだな……)
校舎から外に出たので、彼はまた上半身はだかになった。午後の日差しに思わずズボンも脱ぎたい衝動にかられたが、そこは何とか我慢する。
(よし。それじゃあ街まで、水着を買いに行きますか)
今朝の夏美の指摘が、朝からずっと頭にこびりついている。一刻もはやく、このパンツを脱いでしまいたかった。
ぐっ、と天上に向けて大きな伸びをする。そして軽快な足取りで、高速道路に向けて歩き出そうとした。
そんなときだ。
(―――うおっ)
また今朝と同じような衝撃がテツオの背中を襲った。もう、犯人の顔を確認するまでもない。
(な、なつみー……)
と呆れたような顔で振り向くと、夏美の携帯の画面が目の前にあった。
『どこ行くの?』
という率直な質問だった。彼もすぐにメールで返答する。
『ちょっと街まで』
『なにか買い物?』
いや……、と本来ならここで言葉に詰まるのだろうが、幸いしゃべれないのでそんな心配はしなくていい。メールを打ち終わるのがちょっと遅くなるだけだ。
『今朝も言ったけど、海パンがほしくてさ。街まで買いに行こうと思って』
『あー、パンツ一枚で歩いてたときに。なに、それじゃあ明日から水着でかようの?』
『一応、そのつもり。……あのパンツよりかはマシだろ』
『たしかに、あの格好は目に毒だったわね。けど、テツオセンスないからねー。心配だわ』
と言うと、彼女はけらけらと口に手を当てて笑った。あからさまに、彼は不機嫌な顔をする。
『ほっとけよ……。それじゃあ、俺はもう行くからな』
これ以上、彼女にそのことを言われると、また顔が真っ赤になりそうで恐ろしかった。
そんなボヤキを最後に残して、テツオはさっさとその場を逃げようとした。
(……っとと)
しかしニ、三歩まえに進んだ瞬間、夏美が腕をつかんで引き止めてしまった。な、なんだよ。という表情で振り返る。今度のことは、彼も予想していなかった。
(なっ……)
しかしその視線の先に待っていた言葉は、テツオの想像をさらに上回るものだった。嬉しいような困ったような、何とも複雑な気持ちに彼はおそわれた。
『あたしも一緒に行く!』
―――高速道路は風が強くて、さっきよりも幾分すずしかった。夏美のロングヘアーが風にのって軽やかに踊っている。
(なんだかなー……)
その彼女の後ろ姿を見ながら、テツオはずっと落ち着かない心情だった。確かに以前は、放課後や休日も二人でよく遊んでいた。けどそれはあくまでも小さい頃の話であり、中学生になってからは、学校以外ではほとんど会わなかった気がする。
(これも、町から音が吸い取られてしまったおかげなんだろうか……)
と、まったく脈絡のないことを思ってしまうほど、テツオはいま舞い上がっている。
だから突然―――彼女がテツオの腕に抱きついたときには、彼は心臓が爆発しそうな想いだった。
(な、なんだ……!?)
と呟いてハッとする。そうだ。いまは口がきけないんだった、と。
しかし夏美の様子があまり冗談っぽくなかったので、すぐに頭は正常な思考を取り戻した。
そして彼女がすこし震えていることに気付く。
いったい何だろうと、彼女の視線の方向に自分も目をなぞった。途端、彼は冷水を浴びせられたような気分になった。
(う、うわ……。なに考えてんだ、あいつら)
四、五人くらいの集団だったろうか。
いわゆるヤンキーな格好をした奴らが、ヘルメットも付けずに、高速道路をバイクで暴走しているのだ。右に左にぐるぐる旋回して、音が聞こえないのでその迫力は薄れているが、それが歩行者にとっては逆に危険だった。
『あ、危ないな。夏美、だいじょうぶだったか』
『うん……。そんな近くには来なかったから平気だったけど、でも、音が無いから横を通り過ぎたときゾクッとした。ちょっと怖かったかな』
あの夏美が震えるくらいだから、ちょっとどころではないのだろう。
(くそっ……)
二酸化炭素とか、地球温暖化とか。
そんな問題よりも、彼女をこんな気持ちにさせたことに、テツオは腹が立ってしょうがなかった。彼は携帯のメール画面を操作した。
『大丈夫さ。……どんな自分のことしか考えていないバカがいたって、夏美には絶対に近づかせない。俺が守ってやるから』
という言葉が、いまの彼の本心だ。しかしとてもではないが、そんなメールを見せられるほど彼は勇気のある少年ではない。
(……)
口は使えない。メールも見せられない。
その自分の度胸のなさに、彼は本当にイヤになるときがある。
ただし声はなくても、言葉がダメでも気持ちを伝える方法は他にいくらでもある。不器用ではあっても、それは、テツオが握り返した彼女の左手にしっかりと現れていた。
*
『ねえ、これなんか格好よくない?』
トランクス型の海パンを広げて、夏美が言った。
『それとも、こっちの赤いやつのほうが好み?』
街へ着くと、二人は適当に大きなファッションビルに入って、水着コーナーを見て回った。こよみのうえでは十二月でも、水着は年中売られている。
(しかし……、俺って、こういうところに女の子と来たこと一度もなかったな……)
カラオケやゲーセンには何人かのグーループで遊んだことはあっても、こういう二人きりで、しかも自分が好きな子と一緒に買い物なんて事は、テツオにとっては初めてのことだった。だから彼女が自分の水着についてしきりに訊ねてきても、彼はどういうふうに振る舞えばいいのか、ちょっと戸惑い気味だった。
『やっぱりね、テツオは原色系は似合わないと思うの。私のおすすめはこのグレーなんだけど、どう? ダメかな』
と意見を求められても、彼は変にあがってしまっていた。メールを打つ指にも力が入り、なかなか文が完成しない。それで早く返答しなくては、と焦った結果、
『別にいいと思うよ』
という何とも面白みのない言葉を、さっきからずっと連発している。
『別にいいと思うよってねー、さっきからそればっかりじゃない。本当に買う気あるの』
この指摘には、彼はぐうの音も出ない。
『……それじゃあ、この水着でも別にいいわけ?』
といって差し出された水着は、はばが指先くらいしかない、きわどいTバックだった。これには思わず吹き出すテツオ。
『どう。みんなの注目は、一気に集めることができるでしょ。これにしてみたら』
冗談じゃねー、と呟きながら彼はメールを操作する。不思議とそのときは打ち間違えたりしなかった。
『アホか! 誰がこんなのはけるかよ。言っとくけど、通学用としてはくんだからな。一発芸のために買うんじゃないんだぞ』
怒りの絵文字は使っているが、明らかに顔では笑っていた。そして夏美も、彼以上に肩を揺らして派手に笑っている。
その後も、何軒か店を見て回って、その度に二人で可笑しそうに騒いでいた。もちろん声が出ないので周りの人には迷惑をかけていない、つもりである。
『それじゃあ、このファミレスにしようか』
水着を買い終えて―――結局、彼女がほとんど決めてしまった―――お金もまだ残っていたので、選んでくれたお礼ということで彼は食事をおごることにした。といっても、学生なのでしょせんファミレスだ。
『今日は、買い物に付き合ってくれてありがとな』
『いや、なんだか悪いわねー。勝手に着いてきただけなのに、ご飯までごちそうになって』
夏美の頬が嬉しそうに揺れる。そんな彼女の表情をみると、テツオもつられて笑みがこぼれた。
少し経ってからウエイトレスが水を運んできた。そしてメニューを一つずつ置いて―――終始無言だった。
やはりこういう接客業は、しゃべれないとやりにくそうだ。注文を取るときはどうすればいいのだろう、と彼が考えていると、ウエイターは一枚の紙とボールペンを置いてすたすたと去ってしまった。
『なんだか、不思議な世界よね』
今さらながら、といった感じで夏美がメールで呟いた。紙切れには、「いらっしゃいませ」と「ご注文はこの紙にご記入ください」という説明書きがあった。
『ああ……。本当にいまでもたまに、これは現実じゃなくてどこか夢の中の話しなんじゃないかと思うことがあるよ。音がまったく聞こえないなんて、な』
『それにこのままあと何年かしたら、人間は暑さで絶滅するみたいだし。……状況はまさに、SFの世界よね』
彼女はどこか冗談っぽく微笑んだ。そしてメニューを開いて、注文何にする、というような目でテツオを見上げる。
『夏美は……、死ぬのが怖いって感じたことある?』
けれど彼は話題を変えなかった。ファミレスのメニューを選ぶには、あまりに鋭い目つきである。
『うーん……、それは、想像したら怖いなって思うことはあるよ。夜寝ているときに、私は、地球が何℃までだったら生きられるんだろうとか真剣に考えすぎて……、泣き出したこともあるし』
『……そうだよな。知ってるか。つい昔だったら、十二月は最高気温がこの冷房の効いたレストランよりも低くて。地域によれば、マイナスなんて温度が存在したらしいぜ』
『うん。まだ私達が生まれるずっと前のことでしょ。たしか雪っていう雨が、そこでは降ってたらしいわね』
『そうだよ、ふざけるなって感じだよな。昔の奴ら、地球がこんな風になっちまうのを分かってて、見て見ぬふりをしてたんだから。どうせ地球が狂い始めたときには、もう自分は寿命を迎えているって思ったのか知らないけど……。勝手すぎるよ、ぜったいに』
彼は拳を振り上げて、激しくテーブルに叩きつけた。グラスの水面に小さな波。音は聞こえない。
『テツオは、死ぬのが怖いって思ったことあるの?』
テーブルとグラスの振動が収まるのをまって、夏美が質問した。
『そりゃあ、あるよ。ただ死ぬのが怖いっていうか……、予想済みの死だけは迎えたくないんだ。病気、事故、殺人だって、いつ起こるかなんてわからないだろ。けれど、いま俺たちが直面している死は、ずいぶん前から分かっていた死じゃん。運命から逃れたい、とはちょっと違うけど、とにかくそんな人生のピリオドは打ちたくないね』
『要するに……、タイムマシンで未来に飛んでも、自分が死ぬ日だけは行きたくないってこと?』
『まあ、そういうことやね。普通に死なせてくれってだけの話し』
メールを見せると、彼は肩をすくめてみせた。感情を表現するため、どこか大げさだった。
『私たち……、これからどうなっちゃうんだろうね……』
声はなくても、不安そうな彼女の気持ちが文面から伝わってきた。これはいかん、と明るいメールを打つテツオ。
『まぁ、心配はいらないと思うよ! このサイレントCO2で、この町の二酸化炭素はかなり減ってるし。この前のニュースでも言ってたけど、順調にいけば、地球の温度は少しずつ下がるみたいだしね』
『それホント?』
『ああ、本当だよ。だから大丈夫だって! それにもし地球の気温がヤバイことになっても、俺が夏美を死なせないから!』
普段使わない絵文字をちりばめて、何とか彼女を元気付けようとした。おかげで最後の文章も冗談っぽくなったが、そうでないとこんな台詞は吐けない。
『はは。私だけ死なないんじゃなくて、テツオも生きていてよ!』
『そりゃ、もちろん。優先順位は、俺のほうが上だからね』
パン、と彼の足に小さな一撃。なんだそりゃ、という突っ込みだった。夏美にまた、笑顔が戻った。
(良かった……)
その表情をみて、彼はホッと安堵した。
『それとね。何気に私、この音の無い世界のこと気に入ってるんだ』
『へー、そりゃ珍しい』
『うん。私って、昔からけっこうおまじないとか占いとかに凝ってたじゃない。それでいまも試しているおまじないがあるんだけど、それは普通の世界だったらどうしてもできないことなんだ。音が聞こえない、いまだからできるの』
『……なんだそりゃ? それで、そのまじないが成功したらどうなるんだ』
『それは秘密だよ。おまじないは、途中で誰かに言うと効果がなくなるんだから』
『えー、別にいいやん。そんなの迷信だって』
『いや、こればっかりは絶対にダメ!』
そんな会話を二人がしていると、先ほどのウエイトレスがやってきた。
そして紙が白紙だと知ると、「ご注文は紙にご記入を」という新しいメモを置いて引き返していった。その仕草は、妙に荒っぽかった。
『……何か、頼もうか?』
『……そうだね』
二人は肩を寄せ合って、小声のメールをした。
二人が店を出ると、外はだいぶ薄暗かった。やはり十二月なので、日が暮れるのは早い。
『おごってくれてありがとね。ちょっと私、頼みすぎだったかな』
夏美は、遠慮というものを知らない。
ボリュームのありそうなスパゲティーを食べた後に、デザートのパフェやら何やらを三つほどたいらげていた。そのあまりの食いっぷりに、彼は怒りと呆れを通り越して、ただただ見とれていた。
『いや、それなりに覚悟はしていたから……。気にせんでいいよ』
確かに貧乏学生のテツオには痛い出費でも、内心はそれほど痛くない。
それから彼等は、高速道路への道をつらつらと歩いていった。夕暮れの風は冷たくて、彼は上にシャツをはおった。
しばらくは二人で並んで進んでいたが、しだいにテツオの歩調は速くなっていた。
(私は、地球が何℃までだったら生きられるのか考えていて……、泣き出した、か……)
彼はファミレスでの、夏美のメールを思い出していた。
ぐっと、胸が詰まる想いだった。
自分の好きな人がこんな恐怖を抱えていることは、彼にとっては絶えがたい苦痛だった。
(俺が、守ってやらなくちゃな……)
テツオは息を吸い込んだ。
気温二十四℃の空気が、彼の体内を駆け巡る。
これが、あと数年後には、二℃、三℃と上がっているかも知れない。呼吸をしただけで、灰が火傷してしまうような世界が訪れるかもしれない。
しかし、たとえどんな最悪な世界になろうとも、夏美を不安な気持ちにだけはさせたくない。
そのためなら、自分の優先順位なんかいくら下げてもよかった。そもそも、彼の週間ランキングのトップは、先週も先々週もずっと夏美で変わらない。
その記録は、たぶんテツオが死ぬまで更新されていくだろう。とにかくテツオは、彼女の笑顔をいつまでも見ていたかったのだ。
テツオは、そこで立ち止まった。考え事をしていると、彼は早歩きになるくせがある。彼女をずっとほったらかしにしてしまった。
(なつみ……)
と心の中で、彼女の名を呼んで振り返ろうとした。
そんなときだった。
(―――う、うわあっ……!)
今朝と昼間と同じような衝撃が、夜にもまたやってきた。
この行為を、彼女はそれほど気に入っているのだろうか。今回はやけに力が強くて、彼は固いアスファルトに倒れこんでしまった。
(な、なつみー……)
力なさそうに彼は立ち上がると、すぐに携帯電話を取り出した。そして〝いくらなんでも、いまのは乱暴すぎじゃないか?〟という文字を打ち始める。膝を叩きながらヤレヤレといった様子で彼は振り向いた。
―――瞬間、絶句した。
(……)
さっきまでテツオが立っていた場所に、彼女はいた。何故か地面にうつぶせになって、両手を「万歳」の形にしている。
近くには、さきほど高速道路で見たような大きなバイクが、運転手とともに転がっていた。
エンジンのこげた臭いと、コンクリートに刻まれたバイクの軌跡。
その地面はいままさに、赤い液体で塗りつぶされようとしていた。
―――夏美の血だ。
「……!!」
どれほどの声で、テツオは叫んだだろう。いったい何と口にしたのか、音があっても彼は分からなかったにちがいない。
それほど驚愕していた。
「……!!」
彼女のもとに駆け寄る。身体の向きを反転させて、顔面を垂直に見つめた。
頭からの出血だった。額に血が流れ落ちて、髪の毛がぴったり張り付いている。サーっと全身の血の気が引いていくのが、彼は実感としてわかった。
(まさか、俺を助けようとして……)
転倒したバイクの他に、前方を数台のバイクが逃げるように直進していた。よく見ると、ここは暴走族が多いと有名な道路だった。
(俺がボーっと考え事していたから……。だからバイクの集団に気付かなくて……)
夏美、夏美、と彼女のほほを刺激する。彼女は傷だらけで、ぐったりとしていた。
目は閉じている。口も閉じている。呼吸を調べようとして、彼は耳を近づけてハッとした。
(だ、だめだ……。音では確認できないんだった)
彼は手首にそっと指を当てた。
ピクッ、ピクッ、と指先にかすかな反応―――。
(だ、大丈夫だ……。まだ生きている)
このときほど、指に全神経を集中させたことは無い。この安堵の気持ちを、彼はたぶん一生忘れないだろう。
「……! ……!」
夏美の名を連呼する。返事は無い。
「……! ……!」
彼はさらに続けた。腹の底から吐き出した声はただのそよ風にしかならず、彼女の髪を揺らすことさえできない。
「……! ……!」
それでも彼はさらに続けた。自分の声がサイレントに吸い取られていることなど、頭にないようだった。
バイクの運転手は軽傷だったらしく、すでに姿はなかった。彼女をひき逃げしたそいつももちろん許せなかったが、それよりもテツオは、自分のふがいなさに耐えがたい怒りをおぼえていた。
(くそっ……、なにが彼女の笑顔を見ていたいだ……)
テツオの手の中には、全身に傷を負った夏美が眠っている。
(自分が、夏美に助けられて……。俺が守るんじゃなかったのか!)
彼の身体は小刻みに震え、さまざまな感情が同時に揺れた。
(なにが音の消えた町だ!!)
彼はそう吠えると、地面に落ちた携帯電話をつかみ取った。彼女の血を浴びて、画面は赤く変色している。
(急いで、救急車を呼ぶんだ!)
通話はできないので、「119」をコールすることはできない。インターネットから救急車のページを開いて、現在位置や症状などをメールで送信するのだ。
「………………! ………!」
この近くには消防署があるので、すぐに救急車は来るだろう。そんなふうなことを、テツオは彼女に告げた。
「……! ……!」
どんなに叫んでも、無駄だということは分かっている。自分ですら、何と言っているのか分からないのだ。
「………………………………!!」
と、テツオは言った。
……言わないと、ダメだった。
音はただの空気に変わっても、呼びかけることを止めるのが怖かった。
「………………! ………!」
元気付けようとする言葉。生きろという言葉。そして彼の夏美に対する想い。そんなさまざま言葉が、吐き出してはサイレントに吸い込まれていく。
けれど、感情を伝える術は声だけではない。それは先ほどの高速道路のときに理解している。
「……!」
言いながら、彼は夏美の両手を強く握り締めた。二人の指先を通じて、テツオの気持ちが彼女に流れ込んでいく。
そう、彼は信じたかった。
その後、すぐに救急車は夏美のもとに駆けつけた。全身真っ白の救命士たちが、彼女をたんかにのせる。
彼は両手を握り締めたままだ。
救急車に運ばれても、病院に向かう間も、テツオは彼女の手を離さなかった。
そして、ずっと呼びかけていた。
夏美が目を覚ますのを、ずっと待っていた―――。
*
十二月十一日。
それから一週間後のこと。
その日のテツオ達の町の状況を説明するのは、ちょっと難しい。とにかくたくさんの人が外に出て、ギャーギャーと叫んでいた。何も知らない人が見たら、「ここは狂人の町か?」と勘違いしてしまうほど、みんながむしゃらに騒いでいた。
しかし、それもしょうがないことだ。サイレントCO2の実験がひとまず終わって、十日ぶりに町に音が戻ったのだから。
(まったく……。おめでたい奴らだな)
病院の通路の窓からも、町の様子が一望できた。
テツオはその誰もいない廊下を、一歩、一歩、踏みしめるように歩いていた。足音を聞くことが、妙に楽しかった。
―――コンコン。
と「502」と書かれた病室の扉を、彼はノックした。右手には花束を抱えていたので、わざと利き腕ではないほうで。
「はあーい」
病室の扉ごしに、何とも間延びした少女の返事が聞こえた。あぁ、彼女の声だ。とテツオはなんだか涙が出そうになった。
「夏美!!!」
声を出す前に、彼は深く息を吸った。そのせいだろうか。自分でも驚くほどの大声で彼女の名を呼んでしまった。
「ちょっと……、ここは病院よ。他の人に迷惑でしょ。もうちょっと静かにしてよ」
「う、うるさいな。久しぶりだから、どれくらいの勢いで出したらいいのか分からなかったんだよ!」
ははははは、と狭い室内に、数人分の笑い声が響きわたる。
―――夏美が引き逃げされたあの日から、こんな風に笑顔をみせられるまで、大して時間はかからなかった。幸いにも怪我は浅かったようで、大事にはいたらなかったのだ。
「それと、声が出るようになってから始めて言うけど……」
テツオは彼女の寝ているベッドの横に座って、あらたまった口調で切り出した。彼女が入院してから毎日見舞いに言っている、ここが彼の指定席だった。
「あのときは、俺を助けてくれて本当にありがとうな。俺がボーっと突っ立てたせいで、夏美には怪我させてしまって……。ホンッットにすまん! そしてありがとう」
「ま、まあ別にいいけどさ……。謝るのか感謝するのか、はっきりしてほしいわねぇ」
「いやもう……、両方いっぺんに夏美には受け止めてほしい! ありがとう。そしてごめんなさい」
首を根っこから下げて、テツオは深々と頭を下げた。けれど彼の謝罪の意をありのままに表現するならばこんなものでは済まない。
「あとこれ……。今日はいちおう町に音が戻った記念日ということで、お祝いの……」
「うわっ、凄い花束! どうしたのよ、これ。テツオのキャラとは全然違うじゃない」
「いや、俺はもともと、こういうことはしっかりするほうだよ。……受け取ってくれませんか?」
「ええ。もちろん、もちろん。ありがとう、テツオ」
卒業証書授与、みたいな場面を想像しながら、テツオは彼女に花束を手渡した。声やメール以外に、気持ちを伝えるにはこういう方法もある。
「うわあ、きれい……」
夏美の顔が一面の花束に包まれる。そのせいか、いつもよりもさらに彼女の笑顔が映えた。
「……」
その光景に思わず目をそらすテツオ。音が復活したおかげで、自分の胸のうちが彼女に悟られそうで、心臓が弾むような行為はなるべく避けたかった。
「あっ、あのテレビに映っているひと……」
と半ば強引に、彼は話題を変えた。
テレビを見るのも、本当に久しぶりだった。いまテレビでは特別番組と称して、この町のことを大きく報道している。いまブラウン管には、彼がよくニュースで見かけるコメンテイターの姿が映っていた。
「ああ、あれ総理大臣じゃない」
「えっ……、うそ。あの人ただのコメンテイターじゃないの?」
「はあ? あんた……、自分の国の首相の顔も知らないわけ。この人がサミットのときに手を挙げたから、私たちの町でサイレントCO2が行われたんじゃない。……看護婦さんに言われてテレビ点けていたけど、なんか今日、重大な発表があるらしいわよ」
「重大な発表? なんだよ、それ」
「私が知るわけないでしょ。あっ……、ほら、なんか話し出したわよ」
―――えー、この十二月十一日という日は、日本にとっても、そして地球にとっても忘れられない日になることは間違いありません。人類が、地球温暖化の防止に対して最も具体的で、かつ明確な答えを出したのが、今日という日なのであります。
なにか妙に硬い口調で、その首相は演説を始めた。彼がニュースで見たときはもっと砕けた印象を受けたが。やはり全世界が中継していることで、緊張しているのだろうか。
―――このサイレントCO2を行った町では、二酸化炭素の減少率が、革命的な数値を記録しました。この功績はまず、先日のサミットでこの計画を発案した氏によるものが大きいでしょう。そしてそれと同等の勲章を与えるとするならば、私は真っ先にこの実験を乗り切った町の皆さんに与えたいと思います。本当にみなさん、お疲れ様でした。
パチパチパチと、拍手に代わってカメラのフラッシュがそこで一斉にたかれた。
「……なんだか、いってること大げさじゃない?」
いまの話しを聞いて、夏美が可笑しそうに言った。
「ああ……。俺なんかただパンツ一枚で高速道路を歩いて、学校で居眠りしてただけなのにな」
「ふふ。そんなテツオ君にも、総理大臣は勲章を上げたいみたいよ」
別にいいじゃないか、と彼はちょっと反論した。けれど内心は、自分に勲章を渡すくらいだったら夏美に二人分上げて欲しい、と切実な感情があった。
「ああ、なんかここからが重大な発表みたいよ」
と彼女がテレビの方を指差したので、テツオは俯いていた顔を起こした。
―――そして、勲章の代わりというわけではありませんが。町の皆さんに、ひとつプレゼントを渡したいと思います。……サイレントCO2の実験で、一番皆さんが苦労したのは、人と人との会話でしょう。聞けば、携帯電話のメールを見せ合って、相手とのコミュニケーションを図ったそうです。それでも充分に会話は成立したそうですが、やはりまえの習慣で、つい口に出してしまった言葉が相手に届かなくて歯がゆい気持ちになったと思います。サイレントの機械にも、そんな会話時に不発した音声のデータが、大量にストックされています。そこで私が専門家の人たちと協議した結果……、そのような本来ならば相手の耳に入るはずだった言葉の数々を、携帯やパソコンを通して、もう一度その相手の元へ送りなおそうと考えました。やはり音を吸収するにあたって、人から人へのメッセージというものは、どんなことがあってもうやむやにしてはいけない。我々には、それを本人に代行して伝えなおす義務があると感じました。
(……ん?)
と、それを聞いたテツオは、頭にクエッションマークを浮かべた。首脳が何を言っているのか、その意味が理解できなかったのだ。
(……自分が、音の消えた町で吐いた言葉を、またさらに相手に送りなおす。いま、そう言ったのか?)
そんな馬鹿げたことを……。それにいったいどうやって判別するんだ、とすぐにこんな考えは頭から消し去った。だが、
―――テレビを見ている人たちのなかには、そんなの誰が誰に向けて発したことなのか、判別できるわけないじゃないか、と疑問視されている方もいることでしょう。けれどこのサイレントの機械を発明した人に言わせれば、そんなことは、音声データを解析すればすぐに分かること、だそうです。ですので、間違って赤の他人からおかしな言葉が届くことはありませんので、ご心配いなく。……それでは、説明も終わったことですし、早速、消えたはずの言葉を皆さんに送りたいと思います。それを聞いて、また次のサイレントCO2までの活力になれば幸いです―――。
という演説が終わると、テツオと夏美の携帯の着メロが同時に鳴った。恐る恐る彼は画面を開くと、そこには「奥村」や「夏美」とタイトルに書かれた音声データが、大量に送られていた。
「……」
彼はしばらく固まっていた。自分の携帯に、夏美の吸収された言葉が届いたということは、もちろん彼女の携帯にも……。
彼は、一週間前のことを思い出していた。
朝。高速道路で、夏美と登校の途中。彼女にパンツを指摘されるまえに流れた沈黙の時間。音が聞こえないということで、呟くことができた。テツオの本心である、たった三文字の短い言葉―――。
「う、うわあああ!!」
「ど、どうしたのよ!? いきなりそんな大声出して。びっくりするじゃない」
「な、夏美。……お前もう携帯電話聞いたか!?」
「えっ……? いや、まだだけど」
「頼む! 少しでいいから俺に貸してくれ!!」
あのときだけではない。夏美がバイクに接触して気を失っているときも、テツオはさんざん臨界点突破の台詞をぶちまけていたし、一週間前以外にも学校や病室で、彼はさまざまな本音を彼女に言っていた。
「なーに? 聞かれたらまずいことでも、うっかり口にしちゃったの」
「べ、別にそんなんじゃないけどさ……。夏美には誰からのメッセージが送られているのか、気になってね。ちょっと貸してくれるだけでいいから」
「ふっ、そんなこといって……。渡したらすぐに自分のデータ削除するつもりでしょう。おあいにくさま、メッセージのほとんどは〝テツオ〟くんからよ。……あっ、この日付は、私が気を失っていたときのものね。どれどれ、どんな言葉で彼は私を励ましてくれたのかなあ……」
や、止めろーと彼が叫んだときには、彼女はすでにスピーカーに耳を当てていた。人は、一定以上の衝撃を受けると魂がぬけるというが、いままさに彼は放心状態であった。
「……」
視点の定まらない目で、夏美の表情をうかがう。何かしきりに、彼女は唇をまごつかせていた。いまにも吹き出しそうな雰囲気である。
「……」
確か、彼女が倒れてから手術室に連れて行かれるまでだったので、かなり長い時間になるだろう。その間ずっとこの気まずい沈黙が続くことを考えると、テツオは発狂しそうだった。
(あー……、終わったな。あのとき自分がなんて言ったかなんてはっきり覚えてないけど、聞かれちゃマズイことには違いない。あーあ……、あの首相は……。なんて余計なことをしてくれたんだ)
首相は最後に、次のサイレントCO2までの活力になれば幸いです、なんてことを言っていた。まったく、呆れて涙が出そうである。
(やっぱり……、夏美のことだから、バッカじゃないのー? とか言って笑うんだろうなぁ……。はは……、なんてこった……)
と、テツオが絶望をひしひしと感じていると、ふいに彼女の指が彼の肩に触れた。
「……」
おもむろに、夏美の方を振り向く。
この場合、彼はなんていったらいいのか、まったく見当がつかなかった。どの教科書にも、上手な解答は載っていないだろう。
「……テツオさぁ、一週間前の、ファミレスでのこと覚えてる?」
彼が言葉に困っていると、夏美のほうが先に口を開いた。テツオはてっきり、激しいトーンで笑われると思っていたので、その彼女の穏やかな口調は素直に意外だった。
「え、えっ? そりゃ覚えているよ。夏美がパフェ三つ食ったことだろ」
「ま、まあ、そんなこともあったけど……。まだメニュー頼むまえの話しよ。おまじないの話し、テツオにしなかったっけ?」
彼は記憶を呼び起こす。そういえば、そんな話しもしたかも知れない。
「ああ……。あの、音の消えた町でないと、できないとか、どうとか……」
彼の記憶回路は曖昧だった。それは、テツオがいま動転しているからだろう。そんな話し、いったい今とどう関係があるのか。
「そうそう。そのおまじないっていうのはね、いつも私が朝にしていたことなの。結局入院しちゃったから三回しかできなかったんだけどね……。でも効果はやっぱりあったんだなって、このテツオの言葉を聞いて納得しちゃった」
「……え、へ? 俺の言葉を聞いてって……。どういうこと?」
「だからー、私いつもテツオに会うとき、後ろから突き飛ばしてたじゃない。あれがおまじないなんだけど、本当は押すだけじゃなくて、言わなくちゃいけない言葉もあったの。けどそれが、普通の世界だと恥ずかしくて……。というかそれを相手に聞かれると、ほとんど告白になっちゃったし」
「あのー……、それで? 話しがよくみえないんだけど……」
「もう。テツオって、ほんと昔から鈍いわね。……けどまあ、それはお互い様なのかも知れないけど。とにかく、あんたも携帯開いて、音声聞いてみなよ。私のメッセージが入ってるはずだから」
といわれたので、テツオは首をかしげながらスピーカーに耳を当てた。とりあえず、初日の朝の夏美の声を再生してみる。
「……!」
そのときの驚きを、やはり彼は一生忘れないだろう。天と地が逆転したような、その夏美の三文字の言葉には、彼でしか味わえない物凄い威力があった。人は、一定以上の衝撃を受けると魂がぬけるというが、いままさに彼は放心状態であった。
そして二日目、三日目と、同じように再生していった。全て聞き終わったあとの、テツオの表情はどんなものだったのか。ちょっと形容する言葉が見当たらない。
「……まぁ、つまり、そういうことよ」
ふと前をみると、彼女の顔は真っ赤に染まっていた。夏美も、彼と同じ気持ちだったのだ。
「な、なつみ……」
「あー、わかった。やめて、それ以上言わないで。次の言葉をいわれたら、たぶん私、テツオの顔まともに見れなくなるから」
と、夏美は彼の言葉をあわてて遮った。
それは俺も一緒、とテツオは言おうとしたが、破裂寸前の彼女の風船を見ていると、その言葉でさえ言うのはためらわれた。
それから、「502」の病室では長い長い静寂が続いた。もうサイレントCO2は終わったんだがなぁ、と彼は思ったが、それほど居心地の悪い沈黙ではなかったので口を開かなかった。
「……」
「……」
それに、今は言葉は必要ではなかった。
何もない、音もない、眼にも映らないものであっても、彼等の間を行きかう感情は、そこに二人がいることだけで、充分に分かり合えるものだったから。
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