私の恋人は、オセロの天才だった。オセロの国際大会では常に優勝をかざり、スーパーコンピュータを相手にしても負けることはなかった。
そんな彼のことが私はとても誇らしかったけど、ひとつ気がかりなのは、付き合い始めてもう何年にもなるのに彼がいつまでも結婚の話をしてくれないことだ。
彼はオセロ界のスーパースターで、海外でもよく仕事をしている。毎日忙しくて、結婚のことを考える暇なんてないのかもしれない。性格は優しいし、夢を追いかける彼のことは大好きだったけれど、二人の将来のことを思うと私はいつも不安になった。
「ねえ、久しぶりに、私とオセロしない?」
ある晩、私は彼に結婚について話そうと決めた。私とオセロをしている彼はいつも機嫌が良かったし、何かをしながらの方が私も話しやすかったので、オセロをすることにした。
私は白、彼は黒だった。
「珍しいね、君からオセロをしようなんて」
「うん、たまにはいいかなと思って。あなたもいい息抜きになるんじゃない」
「そうだね、最近はいろんな国の大会に出ずっぱりで、こんな風にゆっくりと打つのは久しぶりだ。やっぱり、君のそばが一番落ち着くよ」
ここだ、と思った。ゲームはまだ序盤だったが、結婚の話しを切り出すにはいい雰囲気だった。
「私も、あなたのそばが一番落ち着くわ。あなたは海外の仕事が忙しいでしょうけど、これからもずっと一緒にいましょう。だから……、結婚なんて、どうかしら……」
と言うと、白いコマを裏返す彼の手がふいに止まった。私は驚いてる彼の表情を見て、不安が一気におそった。
「それ、本気?」
コマを全て裏返して、彼は静かに問うた。私はすぐに「本気よ!」と答えたが、彼はなにやら難しい顔で考えているようだったので、たぶん断られるんだろうと気持ちは一気に沈んでしまった。
「ほら、君の手番だよ」
彼にそう促されても、私はゲームを続ける気になれなかった。すると、彼は思いもかけないことを言った。
「結婚のことだけど、いいよ」
「えっ、本当?」
「ああ、ただし条件がある。君が、僕にオセロで勝つことができたらね」
そんな……、と私の希望は絶望へと急降下した。彼にオセロで勝つなんて無理にきまっている。スーパーコンピューターでさえ負けてしまったのだ。彼は私と結婚をする気がないので、こんなことを言うのだろう。
「……」
それでも、オセロ板を眺めながら私は次の一手を考えた。彼に勝つのは無理だけど、何とかゲームを続けようと思った。勝利への意志を必死に見せれば、もしかしたら彼の考えも変わるかもしれない。
ゲームは序盤から中盤へと進んだ。二人とも、一言も口を利かなかった。私の頭は最善手を考えるために懸命で喋る余裕なんてなかったし、彼も真剣にオセロ板を見つめていた。
ゲームが終盤になっても、マスの中には黒と白が入り乱れていてどちらが優勢なのかは分からなかった。彼が手を抜いている様子はないので、かなり健闘をしているはずだ。
私にとって、オセロ板は純白のウエディングドレスだった。ドレスに付いた黒いシミを一マスずつ消していき、白ければ白いほど結婚というゴールへ近づく。最後の一手を打って、彼の黒いコマを裏返しながら、私は結婚式場で白く輝く二人の未来を想像した。
「ゲーム終了だね。じゃあ、数えてみようか」
と彼が言ったので、私が数えやすいようにコマを整理しようとすると、彼に慌てて止められた。
「待って、待って。オセロのコマは動かさないで、このままの状態で数えてみよう」
「えっ、どうして?」
「うん……、どうしても。理由は後で分かるから」
私は首をかしげながらも、彼の言うとおり、不規則に黒と白が混ざり合った状態で白いコマだけを慎重に数えていった。ゲームの内容はほとんど互角だったので、もしかしたら奇跡が起こるかもしれないと、祈るような想いでコマを指で追った。そして、全て数え終わったところで、思わず息を呑んだ。
「ひ、引き分け……」
白、黒とともに三十二個。
彼とオセロをして初めて負けなかったけど、勝てば結婚という条件を満たすこともできなかった。私は喜ぶことも悲しむこともできず、助けを求めるように彼を見た。
「この場合は、どうしたらいいの?」
震える声で私はたずねた。勝てなかったんだからこの話は終わりだよ、と言われそうで、返事を聞くのが怖かった。しかし、不安に押しつぶされそうな私に向かって、彼は思いもかけない言葉を口にした。
「この場合も何も、結果はもう出ているよ」
「え、でも引き分けだから」
「オセロ板をよく見てみなよ。僕の気持ちが、そこに表れているから」
結果はもう出ている。彼の言葉の真意が読み取れないまま、私は言われたとおりにオセロ板をじっくりと見つめた。黒と白が絡み合うように置かれていて、そこに規則性は無いように思えた。
しかし、上体を起こして少し遠目からオセロ板を見たとき、そこにあるメッセージが描かれていることに気が付いた。それは今までの不安を一気に吹き飛ばしてしまうような、力強い二文字のアルファベットだった。
「こ、これって……」
私の声はまた震えていたが、今度はこみ上げてくる嬉しさが原因だった。彼はそんな私を包み込むように微笑むと、小さくうなずいた。
「うん、そういうことだよ」
「じゃあ、勝ったらとかっていうのも、全部うそ?」
「もちろん。ちょっと、ふざけすぎたかな」
子どもっぽく笑う彼の表情に、私はただただため息が出たけど、そのうち一緒になって笑った。どうしてこんな回りくどいことをするんだという怒りは、彼の笑顔とオセロに描かれた文字のせいで、まったく沸いてこなかった。
笑い声が拡散して部屋がまた静かになると、彼は口ずさむように言った。
「僕と結婚してください」
私は彼の目を見つめて、そっとうなずいた。ゲームをしているときに想像した未来は、どうやら現実になりそうだった。
そして、これから先も、彼がオセロで負けることはないだろう。
彼はオセロの天才だ。
それは誰もが認める事実であり、黒いコマでオセロ板に描かれた「OK」という二文字が、彼の才能を楽しげに証明している。
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