天気の悪い日だった。今にも雨が降り始めそうな灰色の雲が、町を覆っている。殺人事件というものは、決まってこういう憂鬱な空の日に起きるものかも知れない。
「それで、被害者が発見されたときの状況は?」
草加警部が、部下の刑事にたずねた。
ある大学の近くのマンションに住む男子学生が、昨夜殺された。胸をナイフで一突きにされた状態から、即死とみられている。
「はい、発見したのはこのマンションの管理人です。夜中に被害者の真下の部屋に住む住人から、上の階がうるさくて眠れないという苦情があり、部屋まで注意をしに行ったそうです。しかし呼び鈴を鳴らしても出てくる様子はなく、物音も収まらなかったので、管理人室まで合鍵を取りに戻りドアの鍵を開けて中に入りました。すると、奥の部屋で絶命している被害者の死体を発見したそうです」
「物音というのは、誰かが争っているような音だったの?」
「苦情を言った住人の話しでは、そのようです。物が荒らされるような音と、言い争う男の声が聞こえたと。管理人も、物が床や壁に当たる音がしたと話しています」
「被害者の財布や、金品は?」
「財布からはお金とカード類が抜き取られていて、金目のものは全て盗まれていますね。普通に考えれば、強盗殺人の線が濃いですが」
うん……、と小さく唸りながら、草加は遺体のあった部屋を見回した。部屋の間取りは1DKで、玄関から直線上にダイニング、洋室と続いている。
洋室には家具が少なく、一人暮らしの男らしくこざっぱりとしていたが、机の周りや本棚、クローゼットなどが荒らされて中身が辺りに散乱していた。床や壁、天井には物がぶつけられた傷跡が生々しく残っている。部屋のベランダにはカーテンがされており、窓にも雨戸が降ろされているので外からの光は遮断されていた。
「外への出入り口は、このベランダと窓以外には玄関だけ?」
「そうですね、台所の窓は小さくて人は通れないので、あとは玄関だけになります。管理人が被害者を発見したときもベランダと窓は施錠されていたし、もちろん玄関の鍵も閉まっていた。……状況は、密室ということになりますね」
密室、という言葉を聞いて、草加は思考の回転を少し速めた。
「部屋の鍵は家の中にあったの?」
「ええ、被害者が倒れていた部屋の中に落ちていました」
「なるほどね……」と草加は小さく呟いた。そして部屋を出ると、トイレ、浴槽、台所といった場所をすみずみまで調べた。密室という物理的に矛盾したものを考えるためには、机上の理論を組み立てるよりも、まずはその空間を細部まで把握することが先決である。被害者を殺害した犯人は、いかにしてこの狭い室内から脱出したのか……。
「住人の話しから、容疑者は被害者と争っていた人物となりますね。声や、被害者の体格から、犯人は男とみて間違いないでしょう」
「小林くん。この被害者は、料理とかは全くしなかったのかな?」
「えっ」
草加の脈絡のない質問に、小林と呼ばれた部下の刑事は言葉に詰まった。
「さあ……。冷蔵庫には、いくつか食材は入っているようでしたけど」
「それにしては、さっきから調味料が見当たらないんだよ。しょうゆとかサラダ油とかが入った瓶ね。てっきり、この流し台の下の棚に入っていると思ったんだけど、きれいに空っぽなんだ」
草加は、両開きのドアを開けて、棚の中に四つんばいになって頭を突っ込んでいた。そのままお尻を押し込んでやれば、華奢な草加ならすっぽりと収まりそうである。
「調味料なら、あそこの食器棚の近くのワゴンに揃っていますよ」
小林は、流し台からテーブルを挟んだ場所にある、腰の高さくらいの赤いワゴンを指差した。
「ああ、本当だ。あんな遠くに置いて、料理しづらくないのかな」
「人の好みだから、利便性はあまり意識しなかったんじゃないですか。あと、その棚の中、気をつけたほうがいいですよ。鑑識の話しでは、取っ手を固定する金具がねじれていて先が鋭くなっているそうですから」
小林に注意されて、草加は慎重に棚から身を出した。
そして事情聴取をするために、二人は部屋を出ると、被害者の真下に住む住人の部屋へ向かった。
「それで、物音というのは何時頃からしていましたか?」
小林が、その住人に優しい口調で問うた。小柄な男で歳は二十代の半ばくらいだろう。二人が質問をしている間、彼はずっと青ざめていた。
「僕が、会社から帰宅したのが十一時くらいで、そのときはまだ静かでした。それからすぐにベッドに入って熟睡していましたが、天井から聞こえるドンドンという音で目が覚めたんです。たぶん、一時くらいだったと思います。始めは我慢していたのですが、音があまりにも激しくて、言い争うような声も聞こえていたので、心配になって管理人に電話をかけたんです。そしたら、まさかこんなことになるなんて……」
男は手の平で目元を覆い、苦しそうにため息を吐いた。草加は一呼吸をはさんで、次の質問をした。
「目が覚めてから、物音はどれくらい続いていたんですか?」
「そうですね、十五分くらいだったと思います。管理人に電話をかけた後も、しばらく続いていましたから」
「物音の他に、何か不審なものは聞こえませんでしたか?」
「不審なもの、ですか……」
「ええ、被害者の悲鳴や、何かを細工するような音です」
「いえ、これといって気付きませんでした」
「そうですか。被害者と面識はありましたか?」
「マンションの近くやエレベータで会ったときに、挨拶をするくらいです。特別、交友があったわけではありません」
「被害者の部屋へ行ったことも?」
「ありませんね」
その後も昨夜の状況をいくつか聞き出して、小林はメモを取り、草加は何度かうなずく動作をした。そして簡単な礼を述べると、二人は一階の管理人室まで降りて行った。道の途中で草加は鑑識の人に何か耳打ちをしていたが、小林には何を話しているのかは分からなかった。
「まさか、人が殺されるなんてね……。あたしは信じられないよ」
その管理人は五十歳くらいのおばさんで、二人が部屋へ出向くと、一瞬、怯えたような顔をした。警察に慣れていない人物は彼らと対峙するだけで緊張したり強張ったりする傾向にある。それに、まだ事件のショックが抜けていないのだろう。
「被害者を発見したときの状況を詳しく教えてもらえませんか」
「さっき、警察の人にはお話ししましたけどねえ……」
「すみません。お手数ですが、もう一度お願いします」小林が頭を下げると、管理人はやれやれといった様子で口を開いた。
「物音がして、うるさくて眠れないって苦情が夜中に電話であったんですよ。あたしも、そのときはすでにぐっすり眠っていましたから、面倒くさかったですよ。それでも仕方なく部屋まで注意をしに行ったけど、ドアは開けてくれないし、物音がやむ気配はありませんでした。これはいけないと思って、管理人室まで合鍵を取りに戻って、ドアを開けて中に入ったんです。そしたら、奥の部屋で倒れている人を発見して……」
そのときの光景を思い出したのだろう。管理人は口元に手を当てて、言葉を呑みこんだ。
「その人が亡くなっているとすぐに分かったのですか?」沈黙を破って、草加が訊いた。
「いえ、うつぶせのままでしたから、玄関からは分かりませんでした。部屋まで上がって、血が流れているのを見て、ナイフで刺されたことに気付いたんです。あたしは腰が抜けてしまって悲鳴も出ませんでしたよ」
「ちなみに、部屋の灯りはドアを開けたときから点いていましたか?」
「ええ、点いていましたよ。玄関や台所は消えてありましたけど」
「なるほど、灯りは部屋だけですか……。部屋のドアは完全に開いていましたか?」
「はい、開いていたと思います」
「分かりました。ありがとうございます」と言うと、草加はすたすたと外へ出てしまった。同じように小林も管理人に挨拶をすると、慌てて彼の後を追った。
二人は外へ出ると、事件のあった部屋をマンションの駐車場から見上げた。天気は相変わらず曇っている。
マンションは五階建てで、被害者の部屋は四階の一番端である。たとえベランダや窓から犯人が脱出できたとしても、下は固いコンクリートなので、無事ではすまないだろう。ロープを使ったとしてもベランダづたいに降りることになるので、他の住人に気付かれる恐れがある。ただベランダと玄関のどちらから出たにせよ、管理人が訪れたときには両方ともしっかりと鍵がかかっていた。犯人はいかしにしてその空間から逃げ出したのか……。
しばらく、小林は犯行内容について頭を巡らせていたが、ほとんど形にはならなかった。しだいに考えは煮えつき、ため息をつきながら髪の毛をかきむしった。
「やはり……、状況から強盗殺人の可能性が強そうですね。密室の問題があるので、事はそう単純にはいきませんが。部屋の合鍵を持っていそうな、被害者と関係の深い人物もあわせて捜査をしないといけませんね……」
苦し紛れに、小林はそう提案した。しかしそれに対して、草加はひどく穏やかな口調で切り返した。
「いや、その必要はなさそうだよ」
「えっ、どういうことです?」
小林は虚をつかれたかたちになり、目をしばたかせて彼を見た。
「犯人はもう分かっている。いま考えてみたけれど、犯行内容もこれでほとんど合っていると思うよ」
「ほ、本当ですか! ぜひ教えてください」草加の突然の発言に、小林は思わず身を乗り出していた。
「そうだね……、じゃあ順序立てて説明しようか」
小林の無邪気な反応に苦笑いしながら、草加は静かに煙草に火をつけた。紫煙が辺りに漂い、薄雲の空の中に消えていく。
「最初におかしいと思ったのは部屋の状況だった」
「被害者が殺されていた部屋ですか」
「ああ。被害者は誰かと争っていたという話だけど、それにしてもあれほど床や壁、天井にまで傷が残るのは不自然な気がしてね。それに強盗ならばナイフを持って脅せばいいわけだし、何も取っ組み合いをする必要は無いだろう。何だか部屋の荒れ方がわざとらしいなと思ったんだ」
「しかし、たとえば犯人は強盗ではなくて、被害者と面識のある人物だったらどうでしょう。喧嘩がエスカレートして、衝動的に持ち合わせていたナイフで刺してしまったということも」
「うん、犯人は被害者と関係のあった人物だろう。しかし、あれは衝動的な犯行ではない。被害者の殺され方を思い出してみなよ」
「殺されかたですか……、胸をナイフで刺されていましたけど」
「そう、心臓を一突きだ。まるで始めから彼を殺すつもりだったかのような、見事な刺し方じゃないかい。それに被害者の身体には他に傷つけられた跡はないだろ」
草加はふう、と煙草の煙を吐き出した。小林は自分の意見が退けられたことに反抗するように、すぐに次の矛盾点を突いた。
「犯人は、計画的に被害者を殺すつもりだったのですか? しかし管理人や住人の証言から、部屋からは誰かと争うような物音が聞こえたと」
「そうだね。物音は、被害者の周りの部屋に住むほとんどの人が証言している。男が争うような声も聞こえたと。しかし、その争っている現場を実際に見た人は一人もいないはずだ」
「……どういうことです?」小林は首をかしげて言った。
「要するに、全ては物音だけでしかないということだ。壁を叩く音、床を叩く音、男の声。そこには音だけで実体をともなった証言は何一つとしてない。皆、耳からのイメージで話しているにすぎないからね。
つまり誰かと争っていたという物音は、偽装。犯人が一人で部屋を引っ掻き回して、そう見せかけたに過ぎないと思う。被害者を刺し殺したあとでね。そして誰かに聞かせなければならないという理由があったから、少々やりすぎて、部屋の中はあんなにも傷付いたんだろう」
「はあ……、しかし、何のためにそんな細工をする必要があったんですか」
「それは、もちろん密室のトリックを行うためだ」
小林は、そこで密室の謎とリンクするとは思わなかったので、目を見開いた。草加はそんな彼の様子を面白そうに眺めて、話を続けた。
「密室、っていま言ったけど、あれはそんな大したものではないよ。仕掛けはこうだ。まず、犯人は被害者を刺し殺して、部屋の中で適当に暴れる。周りの人間に、まだ被害者は生きているように見せかけるためにね。そして財布の中身を盗んだ後、管理人に電話をかけるんだ。上の部屋の人がうるさくて眠れないから注意してくれ、とでも言ってね。すると管理人は部屋の前まで来るので、また大げさに部屋を荒らして、物音を立てる。チャイムや呼びかけても応答しない住人に、管理人は腹を立てて、合鍵を取りにいったん下へ降りるだろう。その間に犯人は、台所の流し台の下。あの何も入っていなかった大きな棚の中に隠れるんだ。そして管理人が鍵を開けて、奥の部屋で倒れている被害者に駆け寄るすきに、犯人は開けっ放しのドアから外へ逃げればいい。そうすれば、まるで犯人が密室の中から消えたように思うだろう」
「そうか、あの苦情の電話は、管理人を呼び出すために被害者の部屋からかけられたフェイクなんですね。つまり犯人は……」
「そう。昨夜、管理人に電話をかけた、被害者の真下の部屋に住む住人となる」
犯人の名を告げたところで、草加の煙草はちょうど燃え尽きた。実際に計算したわけではないが、こうした偶然の一致はたまらなく気分の良いものだった。二本目の煙草に火をつけると、草加はさらに話を続けた。
「部屋のドアが完全に開いていたのも、部屋にだけ灯りが点いていたのも、管理人が真っ先に死体に駆け寄って他のものは視界に入れないためだ。台所の照明を落としていたほうが、逃げるときに気付かれる可能性も減るしね。犯人が部屋を密室に見せかけた理由は、たぶん、合鍵も何も持っていない自分を疑われにくくするためだろう」
「あの調味料は、もともとは棚の中にあったものを犯人が動かしたものなんですね」
「そうだろうね。調味料があんな遠くにあったのでは、やはり料理をするときには不便だと思うよ」
事件の全体像がしだいに見えてきて、小林はどこか清々しいような顔つきになった。
しかし、まだ証拠という問題が残されている。小林は少し自分で考えてみたが、すぐに諦めて草加に訊ねることにした。
「犯行のトリックは分かりましたけど、証拠はどうするのですか。いままでの話は、全て推測のうえで成り立っていると思うのですが」
「大丈夫。証拠については先ほど確かめたし、何より小林君が気付かせてくれたじゃないか」
「え……、自分がですか」
「ああ、僕が棚の中を調べているとき、注意してくれただろう。棚の中は、取っ手の金具の先が尖っていて危険だと。その金具をよく見てみたら、先端に真新しい血が付いていてね……。たぶん、犯人が腕かどこかを切ったんだと思う。僕も小林君に言われなかったら気付かなかったし、昨夜、犯人が隠れていたときの台所は暗闇だった。うっかり傷付けてしまう可能性は充分にある。
そして、さっき鑑識の人に調べてもらったら、一致したよ―――僕がいま考えている犯人の血とね。被害者と交友関係がなく、一度も入ったことのない部屋にどうして血が残っているのか。そんな風に追求すれば言い逃れることはできないんじゃないかな」
と草加が話し終えると、小林は急いでマンションの中へ走り、犯人のいる四階へと駆け上がっていった。そんなに慌てる必要もないだろうと、草加は苦笑いしながらその背中を目で追った。
新しい煙草を咥えると、深く息を吸いこんだ。見上げた空には、いつの間にか雲が消えていて青空が広がっている。
殺人事件が解決したあとは、決まってこういう爽やかな空が待っているものかも知れないと、草加はぼんやり考えながら、吸いこんだ息を宙へと返した。
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