春休み。空のペットボトルや読みかけの雑誌がそこら中に散乱した部屋の中で、F男はベッドの上で大の字になっていた。本当は、月に一度はしようと心がけている部屋の掃除をするつもりだったのだが、物が散らかりすぎていてやる気が失せてしまったのだ。
「母さんに頼んだら、しなくていいところまで勝手に掃除するからなあ」
十五歳の少年の部屋は、親には見せられない秘密がたくさん眠っている。無防備に部屋を開けわたして他人に掃除を任せられるほど、彼は純粋な子供ではなかった。
かといって、自分で掃除をするには、この部屋はごみが多すぎる。ベットの真下に至っては、きっとホコリとガラクタの無法地帯だ。本格的な掃除をするのであれば、日が暮れても終わりそうにない。
「もう、二十一世紀になったんだから。ゴミだけあっという間に吸い込んでしまう掃除機くらい、誰か発明しろよな」
などと身勝手な妄想をしながら、F男はだらだらとベッドの上で寝転げていた。
妙な物音がしたのは、そんなときだった。コトコト、と何かが小さく揺れる音がすぐ近くで聞こえた。
「ん? なんだいまの」
目を閉じて、本格的に眠ろうと考えていたF男は不機嫌そうに耳をすました。
――コトコトコト。
床の上で、金属かプラスチック製の何かが弾んでいるような、角ばった音だった。
――コトコトコトコト。
物音は徐々に速くなっていた。ベッドの下から聞こえる。F男は上体を起こして、いつでも逃げ出せるように身構えたが、体に揺れは感じなかったので地震が起きているわけではなさそうだった。
「なんだ、猫か」
彼の家では猫を三匹、飼っている。どいつもやんちゃな性格なので部屋には入れないようにしているのだが、気付かないうちに紛れ込んでしまったのか。
「誰だ、俺のガラクタで遊んでいるやつは」
頭だけ地面に垂らして、音の震源地を覗き込む。相変らずベッドの下はホコリだらけで見通しは良くない。それでも、揺れている物体ははっきりと見えた。以前、中古で購入してから、それっきりとなっているテレビゲームのソフトだった。最近、見かけないと思っていたらこんなところにあったのか。
しかし、おかしい。
首を左右に振ってみたが、猫の姿はどこにも見当たらない。ごみに隠れているわけでもなかった。
――コトコトコトコトコト。
いや、そもそも、誰も手を触れていないのに、ゲームソフトが勝手に振動しているのは一体どういうことなんだろう。まるで気味の悪い生き物のように、床の上でひとりでにバウンドしている。
「……」
ぽかんと口を広げて呆気に取られていると、しだいに揺れはおさまり、部屋は静寂に戻った。反射的に、彼の背筋を冷たいものが滑り落ちていく。いまのは目の錯覚か、それとも霊的な現象か。F男がいまの不可思議な光景に、あれこれ考えを巡らせているときである。
ふいにまたゲームソフトが動き始めたかと思うと、今度は上下に揺れるのではなく、ゆっくりと宙に浮かび上がった。実際に見たことはないが、円盤が空へ上昇していくような動作に似ている。そして、ベッドの底にぶつかりそうな所まで浮かんだかと思うと、いきなり、F男の顔に向かって一直線に突進してきた。
「うわっ」
慌てて首をはね上げて、ゲームソフトの攻撃をかわす。瞬間、恐怖が鳥肌となって彼の全身を駆け巡った。狂ったように、そばにあった枕をぶんぶんと振り回す。だが予想に反して、ゲームソフトはこちらに向かって来なかった。F男には目もくれず、少しだけ開いていた窓の隙間から外へ飛び出していったのだ。
「……な、何なんだよ、いったい」
今にも泣き出しそうな顔で、ゲームソフトの軌道を見つめる。おそるおそる立ち上がると、窓に近づいて視線を外へやった。
ゲームソフトは一直線に、空へ昇っていた。
そして考えられないことたが――空には穴があいていた。
その空の穴に向かって、彼のゲームソフトが吸い込まれていったのだ。
その日は快晴だったので、あれが雨雲でないことは確かだ。青空が虫に食われてしまったかのように、満月ほどの黒い穴がぽっかりとあいている。頬をつねったがいつも通り痛かったので、これが夢でないことは確かだ。
唐突に起こった現実離れした状況に理解がまったく追いつかず、F男が呆然と立ち尽くしていると、
「どうです? 満足いただけましたか」
というような声が、どこからともなく聞こえた。はっとして前を見ると、白衣をまとった六十歳くらいの男が庭の上で満足そうに微笑んでいた。
「誰ですか、あなたは」
明らかに、不信感をあらわにした口調でF男は問うた。
「おや、ご存知ありませんか。二十一世紀を代表する、世界一の発明家ですよ。自分で言うのもなんですがね。それよりも、どうでしたか。見事にガラクタは空の中に吸い込まれていったでしょう」
「えっ、じゃあ、今のはあなたがやったことなんですか」
「もちろん! 私が一生をかけて取り組んだ、世紀の大発明。いらないゴミだけを正確に空に吸い込ませるという、スーパーグレイトな掃除機です」
自称、発明家の男はそう言うと、腕を組んでふんぞり返った。空の穴と、男を交互に見やる。F男としては、わけが分からず、それ以上何を聞いたらいいのかも分からなかった。
「む……、その顔はまだ、この掃除機の威力を信じていませんね。よろしい。それでは、次にあなたの部屋のホコリを、全て空に吸い込ませてあげましょう」
男はポケットからエアコンのリモコンのような機械を取り出すと、おもむろに目を閉じた。そして緑色のボタンを押しながら、眉間にしわを寄せてうんうんと唸っている。
「危険ですから、窓から離れたほうがいいですよ」
と男に注意されてF男が部屋の奥へ移動すると、部屋中のホコリというホコリが空中に浮かび上がった。そしてさっきのゲームソフトのように窓を通り抜けていくと、あっという間に空の穴へと吸い込まれてしまった。おそらく、遠くからは灰色の煙が空に上っているように見えただろう。だがその煙は風に流されて空気と同化したのではなく、この世から姿を消してしまったようだった。
「どうですか、見事なものでしょう」
「は、はい。まだ、ちょっと混乱していますけど、とても凄い掃除機ですね」
F男は部屋を簡単に見回してうなった。そして、その効果を確かめるように机の上からベッドの下まで隅々を点検した。ペットボトルや空き缶、髪の毛などのゴミはそのまま残っており、ホコリだけがきれいさっぱり無くなっている。
「なるほど。本当に凄い。二十一世紀がここまで進歩しているとは思いませんでした。この掃除機を使えば、わざわざ物を動かさなくても簡単にゴミだけを吸い取ることができますね」
「もっと、やってみますか」
「ぜひお願いします。ちょうど、部屋がゴミだらけで困っていたところなんですよ」
「それじゃあ、心の中でいらないものだけを思い浮かべてください。そうすれば、ゴミは自動的に空の中へ吸い込まれていきますから」
「思い浮かべるだけで? そのリモコンで、何か操作をしなくてもいいのですか」
「ええ。一度スイッチを押せば、リモコンを持っている人に限らず、この場にいる人ならば誰でも念じるだけで利用できます。まあ、細かい話は置いといて、とにかく試してみてください」
男に促がされ、F男は部屋を見渡して、いらないものだけを頭の中でリストアップしていった。すると、見えない何かが頭の中を瞬時に読み取っているように、空の穴はゴミをどんどんと吸い込んでいった。
いったい、どういう原理で物が宙に吸い込まれるのか。空の穴はどこに通じていて、吸い込まれたゴミはどこへいってしまうのか。気になる疑問を挙げればキリがなかったがF男はいちいち発明家に尋ねなかった。そんな問題は、どうでもいい。とにかく、彼はこの未来のような道具に純粋に感動して、もっといろんなことに利用したいと考えていた。
「だいたい、こんな具合でしょう」
足の踏み場もないほどゴミが散乱していた彼の部屋は、数分と掛からぬうちに綺麗さっぱり、見事な変貌をとげていた。F男も発明家も満足そうだった。
「これは、本当に素晴らしい、未来のような道具ですね。あなたは、間違いなく二十一世紀を代表する発明家ですよ」
「ありがとうございます。空の穴の素晴らしさをご理解頂けたようで、嬉しいかぎりです」
「それで、もしかしたら、ここからが本題なのかも知れませんけど、この掃除機は、いったい、いくらで売ってくれるんですか?」
F男がおずおずと言うと、男は笑い飛ばした。
「ああ、そういうことではありません。今日、私がこの掃除機をあなたにご紹介したのは、別に商売が目的ではないんですよ。仮に、値段を付けるならゼロがいくつあっても足りませんし、失礼な言い方ですが、そもそも子供相手に売りになんてこないでしょう」
「でも、だったら何の目的で、ここへ来たのですか」
「今から一週間、この掃除機を試しに使ってみてほしいのです。いわば、商品のモニタリングです。この革新的な発明品は、実生活でどのような役割を果たすのか。いま、そのデータを集めているところなんです。そして、実用化に向けて、さらなる改善を図りたいと考えています」
男の説明を聞いて、F男は少しがっかりした。てっきり、自分に譲ってくれるものだと期待していたせいだ。
「なるほど。確かに、こんな夢のような道具を僕みたいな子供に売り渡すわけないですよね」
「申し訳ありませんが、仰るとおりです」
「一週間ということでしたけど、いいですよ。喜んで引き受けましょう」
「ありがとうございます。どんなことでも構いませんので、使ってみて気になる事があれば、このアンケートに記入して下さい」
F男は、男から質問事項が書かれた数枚の紙と、週刊誌程度の厚さの取扱説明書を受け取った。説明書には、掃除機の操作方法や使用上の注意点が記載されていた。それをパラパラと目を通した後、やや二の足を踏んだが、F男は思い切って質問をした。
「あの……、ちょっとききたいことがあるんですけど、いいですか」
「もちろん。操作でご不明な点でもありましたか」
「この空の穴は、いらないものなら、心で念じるだけで何でも吸い込んでくれると言いましたよね。それは生きているもの……、たとえば、人間でも同じように吸い込まれるのですか?」
F男の頭にずっと引っ掛かっていたことだった。彼のこの発言に、男は少し険しい顔つきで答えた。
「まあ、できないことはありませんよ。そのためには、範囲をもっと広げる必要がありますがね」
「どういうことです」
「いま、この空の穴が対象としている範囲は、あなたの部屋だけです。だから、たとえばこの町に住んでいる誰かを吸い込ませたいときは、対象範囲を部屋から町に変えなくちゃならないんです。そのために、このリモコンで具体的な緯度と経度を入力していくのですが、詳しい手順はマニュアルを読んでください」
「いま、その範囲を広げることはできますか?」
「もちろん可能ですけど……、まさか、いまから誰かを吸い込むつもりですか!?」
「ええ、そのつもりです。いけませんか? 前々から、僕はこの世からいなくなってほしい人間が三人いたのです。かといって、まさか殺すわけにもいかず、今まで我慢してきたのですが……。いや、便利な道具が発明されたものだ。ただ、心で念じるだけで、そいつは跡形もなく空の中に消えてしまうんだから」
心の奥に隠していた黒い願望を吐き出してしまうと、F男は満足そうに笑った。対照的に、男の表情はひどく曇っている。
「では、早速お願いします。たぶん、あいつは自宅にいるだろうから、範囲はこの町で」
F男に言われるがまま、男はリモコンを操作する。男の「終わりましたよ」の言葉とほぼ同時に、F男はあるクラスメイトの名を思い浮かべた。まるで呪いをかけるような必死の形相で、頭の中で同じ名前を何度も連呼する。
すると、遠くの方から誰かの悲鳴が聞こえてきた。その声はだんだんと大きくなり、一人の少年が宙吊りになって空の彼方から引き寄せられてきた。F男はその様子を興奮した目つきで見上げた。少年はまるで困惑した表情で、言葉にならぬ奇声を上げながらじたばたともがいている。しかし、抵抗むなしく、彼はあっという間に黒い穴の中へと吸い込まれてしまった。
「すごい! 本当に消えてしまった。これでもう、あいつがこちらの世界に戻ってくることはないんですよね」
「穴の中は、異次元空間です。吸い込まれたが最後、二度と出てくることはできません」
「はは、そりゃあいい。本当は、残りの二人もさっさと掃除したいところですが。一度に片付けてしまうのも味気ないですからね。残りの期間、じっくりモニターさせてもらいますよ。あっはっは……」
F男は声高に笑いながら、クラスメイトが吸い込まれていった空の穴を見つめた。
「まったく、乱暴なことをおやりになる。まだ子供だというのに」
男は、苦虫を噛み潰したような顔つきで吐き出した。その声には失望の色が濃くにじみ出ていた。
「何を言うんですか。この道具を発明したのは他でもない、あなたでしょう。そんなことを言われる筋合いはありませんよ。それに試供しろと頼まれたのだから、僕は自分の使いたいように利用させてもらっているだけです。さあ、早くそのリモコンを渡してください。まさか、今になって預けるのは止めた、なんてことは言わないですよね」
F男は手招きしながら、右手を男の方へ差し出した。男はそこで何か言葉を発そうとしたが、押し黙ったまま、渋々とリモコンを彼の掌にのせた。
「それで、いいんです。一週間、有意義に使わせてもらいますよ」
「くれぐれも、マニュアルはよく読んで利用してくださいね」
「はいはい。分かっていますとも」
「では、来週、リモコンとアンケートを回収しに伺います。……どうせ、そこまでもたないでしょうけどね」
別れ際、男はそんなことを言った。妙に不気味で、確信したような口調だった。
「何ですって。いったい、どういう意味ですか」
気になって、F男はとっさに聞き返した。だが男は何も答えず、そのまま立ち去ろうとした。
「別に、大したことではありませんよ。聞き流してください」
「ちょっと待ってください。何か、気持ちが悪いじゃないですか。はっきり言って下さいよ。もたないって、どういう……」
とF男が言いかけたとき、彼は突然、巻き起こった体の異変に次の言葉が続かなかった。そして右手にあったリモコンは手からこぼれ落ち、地面に転げていった。慌てて拾おうとするが、彼の右手は空中で静止したまま動かなかった。
「な、なんだ。急に体が」
必死に動かそうとするが、まるで言うことをきかない。全身に力を入れても、体は微動だにしなかった。
と、動かないと思ったら、F男の体は小刻みに震え始めていた。焦ったように男を見やる。
「対象としている範囲が町のままでしたからね。いやはや、残念なことです」
男は諦めたように言った。その顔は冷たく、悲しみや同情するような気持ちは一切、含まれていない。
「い、いったい、どういう」
蚊の泣くような声でF男は言う。彼はもう、口を動かすのもままならなかった。
「つまりですね。この町の誰かが、あなたのことを考えながら、この世から消えて欲しいなあ、とでも願ったのでしょう。先程のあなたのようにね。まさか、私もこんなに早く起こるとは思いませんでしたが、それだけあなたはたくさんの人に憎まれている」
「な……」
「さっき、説明しましたよね。空の穴は、ただ頭の中で念じるだけで、いらないものを吸い込むことができると。それは私にもできるし、あなたにもできる。そして、範囲が広がったことで、この町に住んでいる全ての人間にもね」 男は穏やかな口調で、やさしく言った。F男の体は、円盤が上昇していくように空へ浮き始めている。
「は、はやく装置を止めてくれ!」
「それは、無理です。一度、いらないと思ったものを、元に戻すことはできません」
泣き出しそうな彼の訴えを、男は冷ややかに棄却した。
「本当は、先に注意するつもりでしたが、もう手遅れです」
その言葉が合図になったかのように、F男は空へ一直線に飛んでいった。
「う、うわあああああああ!」
奇怪な叫び声を上げながら、ぽっかりとあいた空の穴へと、F男もガラクタやホコリと同じように吸い込まれてしまった。
それを見届けると、男はリモコンを拾い上げて一つのスイッチを押した。すると一瞬にして空の穴は消え失せ、そこには何事もなかったように、雲一つない青空が広がっている。
「やれやれ。大人ではなくて、子供ならばこの発明品を使いこなせると思ったが……。やはり、もっと純粋な心の持ち主でないとダメなようだな。どうして、いつも人間は機械を悪用してしまうのだろうか。白紙のままアンケートを回収したのはこれでもう五人目だ」
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