ひとりの男

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「ああ……、今日は、なんてすがすがしい日なんだろう」
 朝、ひとりの男が家を出る。ひんやりと冷たい空気が肌に心地よい。朝露を抱いた若葉に陽光が照り返して、男の目をきらきらと輝かせた。
「こんな美しい世界に生まれて、私は幸せな人間だ。風に揺れる緑の木々も、それを祝福しているようだ」
 雲ひとつない青空に両手を伸ばしながら、男は歓喜の声を上げた。周囲に人はいなかったので、ありのままの喜びを彼は叫ぶことができた。
 スーツの襟をただすと、新緑に彩られた並木道をほこらしげに歩いた。会社へ続く道のりを、勇者のような気分で突き進む。
 男の道中を阻むものは、何もなかった。街の横断歩道は、常に進めだった。宝石のように煌く小川の水面や、小鳥の幸せそうな歌声だけが、彼の足をおだやかに止めた。
 美しい景色を眺めながら男は歩き続け、高くも低くもないビルの前で立ち止まった。自動ドアの動きを待って中に入ると、一方的な挨拶がどこからともなく聞こえてきた。
「おはようございます。オーロラスリーピース会社さま」
 会社のなかで、男はいつも会社名で呼ばれている。オーロラスリーピース会社で働いているのは、彼ひとりだからだ。
 社員は彼であり、社長も彼であり、会社そのものが彼である。だから自分の呼称は会社名でもいいだろうと、男が自らコンピュータに設定したことだった。
「やあ、おはよう。今日は、とても気持ちの良い日だな」
 誰もいないロビーに、男ひとりの声がいそいそと駆け回る。最上階へ向かうエレベーターの中で、それに対する適当な相槌がうたれた。いうまでもなく、その言葉はひどく機械的だ。
「それで、調査はどこまで進んでいる? いまのペースなら、そろそろ半分は終わるころじゃないか」
 壁の全面をガラス窓で覆われた社長室に入ると、男は愛用のソファーに深々と腰かけた。問いかけの矛先は、一日中、休まずに作業しているホストコンピュータに向けられた。
「現在、調査中の年代は、西暦89年のヨーロッパになります」
「そうか、思ったより早いんだな。全ての解析が終わるまでには、あとどれくらいかかる」
「目標としている西暦0年までは……、残り3364時間と27分19秒です」
 コンピュータが伝える情報は、虫唾が走るくらいに正確だ。
「順調で何よりだ。これからもその調子でがんばってくれたまえ」
「ありがとうございます」
「ところで、話しは変わるが、なぜ私はこんな調査をしているんだろうな。全世界の人類史を調べるなんて、暇のかかることを、わざわざ。不思議に思うだろう。君に答えることができるかい?」
 ジージージーというやすりを擦ったような音が、コンピューターから聞こえた。この質問の意味を、必死に解析しているのだ。しかし、どんなに考えても答えは出ず、途中であきらめたようだ。しばらくして音は止み、コンピュータはお決まりの台詞を返した。
「……分かりかねます」
 男はそれを聞くと、満足そうに肩を揺らした。
「そうだよな。機械なんかに、人間さまの考えることなんか理解できないよな。君もそう思うだろう」
「はい、私も同意見です」
「君は、低俗で、愚劣で、無能だよな」
「はい、その通りです」
 とコンピュータが言ったとき、男は口元に薄笑いを浮かべた。
「なんだ、自分でもしっかりと自覚しているんじゃないか。では、どうして私はそんな役に立たないコンピュータを使っているんだ。教えてくれ」
「それは、私が優れた機能をもっているからです」
「ほう、おかしなことをいうな。君は自分のことを無能だと思っているんだろう。それなのに、なぜ自分のことを優れたなどと称するんだ。矛盾しているじゃないか。いったいどういうことだ」
 と言い終えると、男はソファに体を預けながら、外界をぼんやり眺めた。ジジジジという蝉の混乱した鳴き声を聞くことは、彼の朝の日課となっていた。
 しかし、それも仕方のないことだった。男が話しかける相手は、この世の中にはコンピュータしかいないのだ。
「まったく……、おかしな世界だな。大して文明は進んでいないのに、とうとう人類は私ひとりだけになってしまった」
 男が生まれる約百年前のこと。大きな戦争やテロもなく、人々は平和を強く願うようになった。宗教や利権で争うことがばかばかしく思え、多くの国で軍隊が消えた。兵器の開発も行われなくなった。そのかわり、地球の環境を念頭においた機械が、どんどん開発されるようになった。
 世界中の人々が、地球の自然を思いやりながら生活した。コンピュータに組み込まれる機能も環境保護が最優先された。地球にとっても、人類にとっても、理想的な世界が切り開かれると誰もが確信していた。
「ああ、今日は、気持ちのいいくらいに晴れたな」
 ある休日の朝。幸せそうな四人の家族が、車のトランクにアウトドアの荷物を積んでいた。
「せっかくのゴールデンウィークですものね。雨が降らなくて、本当によかったわ」
「ああ、絶好のキャンプ日よりだ。きっと、人類が自然を大事にするようになったことに対する、地球の感謝の表れだろう。では、今日も環境に一番やさしいルートを通って、美しい山へ出かけることにしよう」
 と、その家族は太陽光を燃料にする車で、わきあいあいと出かけていった。その車には自動運転機能が標準で搭載されており、もっとも環境に害を与えない道を選んで、目的地へ向かうように設定されている。
 しかし、そこで信じられない事故が起こった。
「ねえ、お父さん。ここって、雑誌で紹介していた山じゃないよ」
「おかしいな。車には、ちゃんと目的地を入力したはずなんだが……」
「緑なんて、どこにも見えない。それになんだか暑くなってきたわ。エアコンを付けてちょうだい」
 若葉が生い茂る木々の変わりに、茶色い山肌と、白い蒸気のようなものが窓から見えた。
 その山が、最近噴火したばかりの火山であることに家族が気づいたときには手遅れだった。車内の楽しげな様子は、あっという間にマグマに飲み込まれてしまった。
 このような事故は機械の故障であり、二度とないと思われた。しかし、同様な惨劇が、それからも連続して起こった。なかには、コンピュータで制御されているはずの列車同士が暴走して正面衝突したり、飛行機が急に進路を上げ大気圏を突き破って宇宙へ消えていったりという、常識的に考えられないものまであった。
「いったい、どういうことなんだ! プログラムに異常は無いはずなのに、いつも原因不明の事故が起きる」
「世界の統計によれば、昨年の事故による死亡者数は一億人を超えるらしい。こんな数字は考えられない。もしかして、何かの呪いなんじゃ……」
「そんな馬鹿な。誰に呪われるというんだ!? 人類は心を入れかえて地球の環境を取り戻そうと努力している。我々が恨まれる理由は、どこにもないはずだ……」
 世界の科学者たちは、一丸となって、この問題の解決に頭を悩ませた。だが、どのような対策をしても、コンピュータの誤作動は止まらなかった。人々が戦争を繰り返していたときよりも、それは悲惨なものだった。
 社会が情報化を推進しすぎたせいで、町中にコンピュータの網がはりめぐらされている。人が外に一歩でも出れば、それは見た目だけ頑丈そうなつり橋を渡っているのと同じことだった。
 いつ崖に転落するか、分からない恐怖。誰かがロープを切っているというのならまだ対策のしようもあるが、人が死ぬ状況はすべて事故としか考えられないものだった。
 コンピュータの反乱ともいえる異常事態はなぜ起こったのか。その原因さえ分からないのでは防ぐ手立てはどこにもない。
 人類は、着実に滅亡への道を歩んでいった。
「はあ……、今日はぽかぽかして、本当にいい陽気だ。春はやっぱりいい。このまま、眠ってしまいそうだ」
 しかし、人類は絶滅しなかった。たったひとりだけ生き残ったものがいたのだ。その人物とは、いまだらしのない表情であくびをしているこの男だ。
「なあ、コンピュータ。地球で生きている人間は、本当に私ひとりだけなのか?」
 この問いかけも、男の日課だった。十年前、彼がこの会社をつくったときからずっと。
「はい。地球で生息が確認されているのは、日本で生活しているオーロラスリーピース会社さまだけです」
 はいといいえだけの質問なら、機械はせっかちなほど素早い回答をする。ただ、これも、男の手によるものなのだが。
「まったく、利口なやつだよ。このコンピュータというものは」
 皮肉めいた口調で、男は吐き出した。
「イエスかノー。黒か白。生きるか死ぬ。我々、人間が滅んでいった理由も、そんな単純なことだったんだろう。中途半端な文明で、地球の環境なんかに手を出したのが、そもそもの間違いなんだ。たったの一秒という時間で、ひとつの惑星を腐らせたのは自分たちだっていうのに……。
 バカバカしい。機械なんておりこうな道具に「環境保護」なんて優先させたら、まっさきに人間を消し去ろうとするのは、目に見えているじゃないか」
 男は顔をしかめながら、喘ぐように言った。彼の呟きにはコンピュータは適当に相づちすることになっている。
「そのとおりですね」
「うるさい、黙れ! 何も分かってないくせに、軽々と相づちなんかするんじゃない」
 男は手元にあった灰皿を、コンピュータの画面へ思い切り投げつけた。しかし痛いともやめてともコンピュータは言わない。
 ただ、正確に、床に散らばった灰は機械によってあっという間に消滅する。
「まったく、ふざけた話しだ……。毎日、好きなだけタバコを吸って、私だけが地球上で環境破壊を行っているというのに。なぜ、私ひとりを生かすのだ。他の人間はすべて殺しておいて、私だけが生き残った理由は何なのだ?」
 灰色にすす汚れたコンピュータから、やかましい蝉の鳴き声が聞こえる。男は息を呑んで、その解答を待った。
 そして、男の質問に、機械はこう返した。
「……分かりかねます」
 この世で最も深いため息を、男は吐いた。もう何度も繰り返している落胆だ。
「ふん、いいさ。感情のない思考回路に、人間さまの心理が理解できてたまるか。その答えは、自分で見つけてやるよ。だから、こうして何年も、人類の歴史をたぐり寄せているのだからな」
 しだいに、男の顔に活力がみなぎってきた。彼も若い年齢ではなかったが、この問題を解決するまで死ぬわけにはいかない決意があった。
 他の人間は死に絶え、自分だけが生きている意味。機械が何を考えてそう判断したのか。
 人類最後の男は、自身の存在理由を明らかにするためだけに、ただひとり生きている。
 そして、お決まりの質問を、コンピュータに投げかける。
「おい、調査完了まで、あとどれくらいなんだ」
「残り3362時間と43分22秒です」
 コンピュータの解答は、いまいましいほどに一瞬だ。


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