僕の彼女は、束縛の強い人だった。
毎日、どんなときでもメールや電話がひっきりなしにかかり、少し抑えてくれと言っても、寂しいとか浮気が怖いからだとかで、行動をあらためなかった。付き合い始めてまだ二週間だったけど、そんな彼女に僕は早くもうんざりしていた。
「いらっしゃいませー……、三百四十円になります。ありがとうございました」
僕は家の近所のスーパーでバイトをしている。そして彼女も同じ店でバイトをしていた。僕は高校生で彼女はフリーターだったが、平日、休日とほとんど毎日顔を合わせているので、どうしてそこまで彼女が携帯電話でもコミュニケーションを取ろうとするのか、メールが嫌いな僕には理解できなかった。
「あの、先輩。ちょっと商品の補充を手伝ってくれませんか?」
ある土曜日。客の数も少なくなってレジで暇をもてあました僕に、後輩の女の子が大きなダンボール箱を運んできて言った。中には食料品がたくさん詰まっており、一人では大変そうな量だったので僕は快くうなずいた。
「高山くん、勝手にレジを外れちゃまずいんじゃないの」
となりのレジで働いていた彼女が、不満そうに言った。
「大丈夫だよ、今は客も少ないし。それにちょうど暇だったしさ」
と言って、僕は後輩と一緒にさっさと食料品コーナーへ移動した。彼女の視線を背中に感じていたが、気にしないことにした。
その後輩の女の子と僕は同じ高校で、棚に商品を入れながら、ある教師の話しで盛り上がっていた。
「あはははは、そんなこと言ったら、先生に失礼じゃないですかー」
「ははは、関係ないよ。そこで笑うってことは、中野さんもそう思ってるってことでしょ」
二人の笑い声は店中に響きわたるほどで、しばらく僕は後輩との談笑を楽しんでいた。
客の数がだんだんと多くなったところでレジへ戻ると、彼女にいきなり鋭く睨まれた。
「ずいぶん、楽しそうだったわね」
「まあ、ちょっと学校の先生の話題で盛り上がってさ」
「ふうん……。ちなみにあなたがレジを離れているあいだ、私はひとりで大変だったわ。お客さんが何人も並んで、私が必死にレジを打っているときも、あなたは可愛い女の子と仕事ができてさぞ楽しかったことでしょうけど!」
彼女は明らかに怒っていた。そうでなくとも、彼女は僕が他の女の子と会話をするだけで機嫌が悪くなる。とりあえず謝ってみたが彼女の腹の虫がおさまる様子はなく、いつまでもねちねちと嫌味を言う彼女に僕も嫌気がさしてきて、お客がいなくなった隙に「いい加減にしろ!」と怒鳴ってしまった。すると彼女はビクッと身体を強張らせると、途端に押し黙ってしまい、彼女が先に仕事を上がるまで気まずい空気が流れていた。
閉店時間になって仕事が終わると、僕は従業員の控え室で一息ついた。
「先輩、お疲れさまでしたー」
後輩を見送って部屋に一人になると、煙草に火を付けながら鞄から携帯電話を取り出した。電源を入れて新規メールをチェックしたところで、思わず息を呑む。
未読メール、二百件。
送信元は全て彼女からのもので、その内容はどれも空メールだった。僕はそこで始めて彼女に恐怖を感じ、嫌悪感はますます強くなった。煙草を一本灰にすると、大きく深呼吸をして彼女に電話をかけた。
「……どういうつもりだよ」
「うん、ごめん。でも大丈夫だから。メールのパケット代なら私が出すわ」
「そういう問題じゃないだろ!」
「だって……、あなたが他の女の子と楽しそうだったから不安になって、でもどうしたらいいか分からなくて、メールを送れば送るだけあなたのそばにいられるような気がして……」
ぼそぼそと彼女の声は小さくなり、そして泣き出してしまった。僕は「そんなに心配するなよ」とだけ言い残して、電話を切った。付き合う前の彼女はもっと淡々としていて、こんなに嫉妬の強い人だとは想像もつかなかった。好きになったらのめり込んでしまう、という彼女の言葉を、付き合う前にもっと正確に解釈すべきだったと今になって後悔をする。バイト先から自宅に帰る道中、僕は早くも彼女への別れの文句を考えていた。
「おはようございます」
翌日、僕は朝からバイトが入っていた。そして彼女も同じ時間帯のはずだった。
昨夜、彼女との電話を切ったあとも、空メールがひっきりなしに送られてきた。心配するな、という僕の言葉も彼女の耳には全く入らなかったらしい。それから彼女からの着信も何回もあったが、僕は一度も出ることはなく、そのまま電源を切って現在にいたる。
従業員室に入ると、彼女の姿はまだなかった。できれば今日は彼女とは離れた場所で仕事をしたかったので、幸先のいいスタートだった。
「あ、高山先輩。おはようございます……」
タイムカードをセットしていると、後輩の女の子が神妙な面持ちで挨拶をしてきた。そういえば、今朝の従業員室の空気はどこか異質だった。
「先輩、聞きましたか。園田さんのこと……」
園田さん、とは僕の彼女のことである。後輩は、僕と彼女が付き合っていることを知らないし、他のバイト仲間にも話していない。
「ううん、聞いてない。園田さんがどうかしたの」
何気なく問い返すと、後輩は一つ息を吐いて、怪談話でもするかのようにゆっくりと話し始めた。
「私もいま聞いたばかりなんですけど。朝、早くにですね。……園田さん、自宅で自殺をしたらしいんです」
「えっ……」
僕は声が固まり、次の言葉が出てこなかった。
彼女が自殺?
思いもかけない後輩の言葉に、僕はしばらく思考が止まり、顔面から一気に血の気が引いた。
「ま、まさか……」
まさか、原因は昨日の一件にあるのだろうか。僕が彼女の愛情に応えなかったから死んでしまったというのか。それじゃあ、僕が彼女を殺したことに……。
後輩の女の子は僕のただならぬ様子を心配そうに見つめていたが、僕はショックで何も言う気になれず、そのままふらふらと仕事場へ向かった。
今日のバイトは午前中で終わりだったが、自分が何をしていたのか全く思い出すことができない。商品の陳列と補充を命じられていたが、ずっと放心状態で、まったく仕事が手につかなかった。
バイトが終わって従業員室に戻ると、僕は機械的に煙草を吸いつづけた。鞄から携帯電話を取り出してテーブルの上に置いていたが、電源を入れる勇気さえなかった。彼女からのメールが、空メールだけだったならまだいい。しかし、もし僕に対してのメッセージが綴られていたら……。
彼女の愛の言葉。
そして死の言葉。
どちらも想像するだけで恐ろしかった。
「……!!」
派手な音を立てて、椅子が後方に吹っ飛んだ。
そのメロディーが奏でられた瞬間、僕は仰け反るように立ち上がり、表情は恐怖に染まった。
電源は切っているはずなのに、携帯電話がメールの受信を知らせている。しかもこの着メロは、彼女の携帯に指定したものだ。
誰かのイタズラだろうか。
おそるおそる携帯を開いて、メールの受信画面を表示する。
アドレスは彼女。そして内容は空メールだ。たぶん、彼女の友人か誰かの嫌がらせだろう。
それ以前のメールも意を決して調べてみたが、最後に届いたメールの時刻は午前三時までで、空白文がずっと続いていた。自殺直前の怨念のような文章は、送られていない。
ほっと安心したとき、またメール受信のメロディーが鳴った。
「なんだよ、誰だよ……。いい加減にしろよな……」
彼女が死んだという情報は、彼女の家から店に電話があって、従業員の耳に入ったらしい。警察も動いているらしく、店にもパトカーがやってきた。デマということはないはずだ。
つまりこれは彼女ではない、第三者からの連絡ということになる――そう頭には言い聞かせていたが、メールを開く指先は、カタカタと小刻みに震えていた。
「な、なんだよこれ……」
どうせまた空メールだろう。そう思って本文を表示させたが、僕の思惑は裏切られ、胸の鼓動はどんどん速くなった。
画面には、一言、丁寧な文章が書かれていた。
『今から会いに行きます』
僕はすぐに携帯を閉じると、テーブルに放り投げた。
「た、性質の悪いイタズラだ……。死者がどうやって会いにくるんだよ、バカバカしい」
新しい煙草に火を点けて、ニコチンを強引に胸の中に取りこんだ。何とか気持ちを静めようとするが、風が窓を叩く音、テーブルが軋む音、その全ての不協和音が彼女の訪れを告げているようで、混乱は増すばかりだった。灰皿に煙草を押し付けて、自由になった両手に耳を塞ぐことを命じる。まぶたも閉じる。
無音。暗闇。
ここには自分しかいないと頭の中でとなえ、自己催眠ともいえる症状でようやく心が安定したときだ。
暗闇の奥底から聞きなれたメロディーが奏でられた。
「いい加減にしろよ!!」
メールはまた空メールだった。僕はいまの怒声を文字で打って、彼女の携帯に送りつけた。確かに自殺の原因は僕にあったかも知れないが、彼女の一方的な愛情表現には、誰だってうんざりするだろう。僕がそれに応じなかったからって、こんな嫌がらせをされる理由はない。そうだ、悪いのは彼女のほうだ。決して僕ではない!
メールの返信はすぐに送られてきた。また空メールだった。怒りがふつふつと湧き上がっている僕は、もうそれほど恐怖は感じなかった。すぐに抗議の文章を送ろうと、返信のボタンを押そうとする――が、そこで信じられないことが起こった。
「えっ……」
メールの本文は、確かに空白だった。
『ど』
それが、今見たら、一文字増えているのだ。
『どう』
いや、違う、二文字……。
『どうして』
三文字。四文字。
頭の認識力が、増えていく文字数に追いつかない。訳がわからなかった。
空白だった画面に、どんどん文字が浮かび上がっている。
同じようなスピードで、背筋に冷たい汗が吹き出た。
増えていく文字は、十五文字にもなった。
そして、最終的にある言葉になった。
『どうしてそんなに怒っているの?』
リアルタイムでメールの文字が打たれる。携帯の機能に、そんなものがあっただろうか。
僕が合理的な理由を考えていると、嘲笑うかのように、またしてもメールの文字は増えていった。
『もっと笑ってよ。やっと会いに来たんだから』
さまざまな感情が交差して、何かを言いたい衝動にかられるが、どうにも言葉が見つからない。
ようやく口をついたものは、蚊の鳴くようなか細い声だった。
「そ、園田か……?」
僕は死んだはずの彼女の名を呼んだ。
すると、メールの文字は物凄い速度で増えていった。
『ええ、私よ。言ったでしょう、あなたに会いに行くって。メールを打てば打つほど、あなたのそばにいられる気がしたの。そして願いは叶ったわ。ふふ、これからはあなたの電話の中が、私のお家。これでいつでも一緒にいられるわ……』
すると画面の中の文字は四方に解体されて、黒い短い線が、くるくると踊った。その線はパズルのように組み立てられて、ある人の顔を描いた。
彼女の笑顔だった。
『ほら、あなたも笑ってよ。こんな幸せってないでしょう』
彼女に言われるがままに、僕は笑った。笑うよりほかに、今の感情を表現できなかったからだ。
それから、毎日、毎分、毎秒。彼女からのメールは止まらなかった。
携帯電話を壊せば彼女は消えてくれるかも知れないが、それは彼女を殺すことになるので、できなかった。
もしもまた彼女が死んで、今度は僕の身体をお家にされたら……。
そんなに恐ろしいことはないからだ。
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